第2話 逢瀬


 西新宿の自宅マンション。

かつて両親と三人で暮らしていた。


私が高校生の頃、

父は母の浮気で出て行ってしまったきり、

音信不通が続いている。


母は時々、浮気相手を家に連れ込む始末。


高給取りの夜の仕事だから

昼間は怠惰たいだに寝て過ごし、

時間になれば一人の夜の女として闊歩かっぽする。



 A子の家から疲れた身体を引きずりながら自宅へと戻った私。

帰ったら玄関で必ずチェックすることがある。


玄関サイドの収納口だ。


その時、見慣れていない黒い革靴が履き潰された状態で見つかった。



――男がいる。



 普段私が家に帰らないせいなのか、ガードが甘い。


 荷物を玄関近くの自室に置き、

渇きを覚えた私はキッチンへと足を運ぶ。


冷蔵庫に手をかけようとした、その時だった。


 つやのある享楽的きょうらくてきな色声。

鼓膜に舌をわせるようにでまわしてきた。


――妖艶ようえんな春の予感。

加速していく心音。


 喉の渇きを忘れて忍ぶような足取りで寝室へと向かった。

少しあいている引き戸をわずかにスライドさせる。


 隙間から見えてきたのは、

むせかえる程のうごめく春画だった。

男の身体の下に母が組み敷かれている。


 艶然えんぜんたる微笑を浮かべて腕を男の首に回しながら、

狂おしい程の律動を深奥へと欲しているように見えた。


 寝室は逢瀬おうせの場と化し、

閨狂ねやぐるいの様相を呈していた。


 喜悦きえつたる色声に、上気していく呼吸。


 そこへ連続的な摩擦音が重なり、

律動たる衝突が限界の扉をこじ開けようとしているのが、

聴覚から嫌でも入り込んでくる。


 まるで両手を後ろで縛られて

耳を塞げない拷問ごうもんのように、

否応なしに鼓膜へとリズミカルに打ち続けてくる。


 男の枯幹こかんのような背中。


 ふしくれ立った背骨が

凋落ちょうらくの梅の樹形たる肢体を連想させ、

所々に隆起した毒痕の生々しさを伝えてくる。


 体位を変えたふたり。


 母が私に背中を向け、

男は寝そべって頭をシーツへあずけると、

男の視線とかち合った。


 呼吸が止まる。


 男は驚くどころか、そのままニタァ……と

ねっとりとした薄ら笑いを浮かべて

ギザギザした不揃いの歯を露出させた。


 先天性のドクむしばまれている。なぜ、こんな男と?


 上下する母親の背中にも同様な跡が見て取れた。


 以前はあんなものなかったはず、まさか……


 私の脳裏はあの不快な黒い産物が

幾度となく粘膜を介して流れ込み、

犯されていくイメージとして結んだ。


 まるで毒で毒をめまわすような

奇異きいにおどろおどろしさを覚え、

迷走神経が悪心戦慄おしんせんりつたる両腕で

やわらかい消化器を鷲掴わしづかみにする。


 無理。 本当に、無理。

こんな母のようには、なりたくない……


 私はその場によろけそうになり、近くの椅子にぶつかった。

同時にフローリングの床との軋轢あつれきが不快な摩擦音を散らすと、

それまでの耽溺ちんできを瞬時に殺めた。


「誰⁉」


 母の叫びに、私は無言で家を飛び出したい衝動に駆られた。


「ハル⁉ ハルなの?」


 母が急いで衣服をまとっていくのが音からわかる。


 男の舌打ちがつづいて鼓膜を弾く。


 態勢を変えてこちらへ向かってくる気配が、

その勢いが、怨嗟えんさの瞬間として竦然しょうぜんと奏でられた。


 もう、ここには居られない。居たくない。


 梅の花を咲かせていた母は以前とは別人の様相を呈していた。

その喪失たるや、戻る場所を亡くした私の心底しんていに、

悲しみの涙となって水面みなもを描く。


 鈍麻どんまする重力よりも重い痛覚を腹部に従えながら、

私はその場から逃げるように玄関へと駆け出す。


「おい、待てよ」


 振り返れば、男が全裸でこっちへ向かってくる。

さっきは分からなかったが、肩から腰へかけて

桃色の花をあしらった入れ墨が流れている。


 この男、見覚えがある。母のお得意客のひとり。

あの特徴的なくぼんだ双眸そうぼう

邪念をはらんだ不揃いの歯牙。


 もう自室に戻り荷物に手をかける余裕がない。

玄関口で靴を履こうと足を上げた瞬間、男に手を引かれた。


「待てったら……」

「い、イヤ……」


 タバコの臭いとえた残臭ざんしゅうとが鼻腔を突く。


 私は手を振り払おうとしたが、

力強い握力に屈する形で後方へ倒れ込む。


 目の前の怪物から逃れられない恐怖が全身を襲った。


 視線で振り払うように上体を起こすが、

男のよこしまな手によってもてあそばれる。


「おとなしくしろよ!」

「やめて! 離して!」


 逃げなきゃ。


 ここでつかまったら、永遠にこの闇から抜け出せなくなる。


 本能がそう警告している。


 私は隆起した男の一物を蹴り飛ばし、拘束こうそくから逃れると、

私は靴を履くのも忘れ、弾かれたようにその場から飛び出した。


靴を履く時間さえしかった。


「くっ……このアマぁ……」


 震える憎悪ぞうおに満ちた睥睨へいげい

背中で射抜く恐怖を覚えながら疾駆しっくする。


「ハル! 待って!」


 道中、むせぶように泣いた。

呼吸の仕方がわからない。肺が混乱している。

どこへ向かっているのかもわからずに、果てのない未来へと突き進む。


 路面から突き上げてくる、刺すような痛み。

顔をゆがめながら夜道をぎこちない足取りで駆けていく。


靴を履いてこなかったことを後悔しながら、

視界の先に踏み切りをとらえた。


 弾む息。


振り返ってみたが、男は追ってこなかった。

私の知っている母はこの世にはもう、いなかった。


私はただただ悲しかった。

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