第7話

 特別教室に行くと、そのままにしていたはずの画材道具は片付けられていて、溢したはずのバケツの水も綺麗に拭かれていた。掃除をしてくれた人にお礼を言わなければいけないような気がしたけど、担任の先生にそれを聞くのは少し億劫だった。

 教室には空っぽのイーゼルが立っている。僕は絵を描くという目的を失って、時間を持て余した。篠田のように教室のなかをうろうろと歩き回ったけど、どうにも落ち着かなかった。ぎくしゃくと、自分が不自然な歩き方になっているのが分かった。


 手持ち無沙汰のまま、教室の後ろの棚を物色していると、白く濁った四角い石を見つけた。ところどころ、しみのようなものが付いているそれには見覚えがあった。

 僕が中学生のとき、美術の時間のはんこづくりの素材として使った石にそっくりだった。近くの棚を探してみると、彫刻刀も見つかった。予想は当たっていたようだ。

 僕は刃先をあてがい、力を込めた。想像よりも簡単に石は削れた。


 削る、という行為は僕を夢中にさせた。そこには、せっかくできた瘡蓋を爪で剥がすような、自傷じみた快感があった。石を削るたびに、削る音が頭にまで届いて、脳味噌と頭蓋骨の隙間で震えた。白い粉がぱらぱらと床に落ちるたびに、足でそれを散らした。綺麗になった教室を再び汚すことに申し訳ないという気持ちはあったけど、やめる気はなかった。


 この教室に篠田と居た時間が、遠い昔のように感じた。交流、と呼ぶには、あまりに掴みどころのない時間だったけど、それは確かに存在していた。

 彼女を見ていると、彼女と僕は似ている、と思うことがあった。彼女について、住んでいる場所も、入っている部活も、趣味も、なにも知らなかった。それなのに、そのときは本気でそう信じていた。

 今思えば、あまりにも、一方的で、独善的だった。

 少しの間、時間を共有したというだけで、そこまで思い込める自分は、ただ、ただ、情けなくて、弱い人間なんだと思った。

 魚を想った。

 僕が殺した、誰もいない海を泳ぐ魚は、悲しいほどに僕に似ていた。


 石を削る手に力を込める。

 こうでもしていないと、僕は、今にも、泣きだしてしまいそうだった。でも、この救いようのない感情を受け止めるには、この石は、柔らかすぎた。

 弾んだように跳ねた彫刻刀は、石を飛び越えて、何か別のものを削る感覚を伝えた。そのとき、痛みよりも、してはいけないことをしてしまったという罪悪感が勝った。反射的に指が広がって、削られた石が落ちる。左手の甲から、血が流れているのが見えた。

 こんなに血が出るのか、と思った。削がれた傷からは、どんどん血が溢れていた。こめかみのあたりから心臓の音が聞こえて、耳の奥で血の音が跳ねた。鼓動を止めないと、このまま死んでしまうような気がした。


 そのとき、引き戸が開かれる音がした。顔を上げると、誰かが立っていた。なぜか、僕の視界はぼやけていて、その姿を上手く捉えられなかった。ようやく、目の焦点が合うと、見えた。


 太陽の光に、眩しそうに目を細める、窓際の猫みたいだ。

 篠田の笑っている顔を、そのとき、初めて見た。

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楽園 伊毒 @idoku

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