第5話

 何度もなぞったせいで輪郭だけが妙に厚く、泳いでいるというよりは、溺れているような、黄色と、紫色の二匹の魚の絵。

 魚だけでは寂しいからと、余白を紺色の絵の具で埋め出した頃、篠田は特別教室に来なくなった。それまで毎日のように絵の様子を見に来ていた彼女は、もう一週間近く、姿を現していなかった。同じクラスだけど、その理由を聞けるはずもなかった。

 

 僕にはよく分からない女子特有の人間関係の煩わしさとか、そういうものに、彼女は疲れていたのかもしれない。それか何か理由があって、まっすぐ家に帰りたくなかった、とか。

 でも、彼女に厭世の色は見えなかった。どこか超然としていて、むしろ、そういうしがらみから一番遠いところに身を置いているように見えた。

 結局、ただの気紛れだったんだろう。そう考えるのが、一番自然だった。

 そう思うと、今まで姑息な手段ばかり積み重ねて、絵の完成を先延ばしにしてきた自分のことが恥ずかしかった。恥ずかしい、そう思いながらも、毎日ここに来て、引き戸が開けられることを心待ちにしていた。やめられなかった。


 僕は毎日、すでに完成している絵をイーゼルに立てかけた。使う予定のない紺色の絵の具をパレットに出した。筆洗い用のバケツに水を入れた。近くの水道から出る水は勢いが強くて、水を汲むたびに僕の手を律儀に濡らした。

 それは儀式のようだった。

 僕は、誰もいない教室で祈り続ける、敬虔な信者になった。


 十七時のチャイムが鳴る。今日も彼女は来なかった。意味もなく、パレットに出した絵の具を掻き混ぜる。もう、紺色の絵の具は残りわずかになってしまっていた。

 片付けようと立ち上がって、僕は絵を見た。


 不格好な、魚だった。


 彼女はこの絵を、どんな気持ちで見ていたんだろうか。

 この部屋に来るとき、なにを思って階段を上ってきたんだろうか。僕みたいに、踏み板の金属を踏んで、音を鳴らしてきたんだろうか。光が遮られているせいで、いつ来ても夜みたいなこの部屋に入ったとき、僕が覚えた妙な安心感は、彼女のなかにもあったのだろうか。


 僕は筆をキャンバスに向かってふるった。

 ぱぱぱ、と飛沫がついて、魚は死んでしまった。


 小学生のとき、田植え体験の授業があった。授業が終わって、道具を片付けに行くとき、僕は手にしていた鎌で田んぼのなかにいた蛙をいたずらに殺した。鎌をふるうと、それは小さな体を貫いて、抵抗なく泥に刺さった。

 あまりにもあっけなかったから、灰色がかった内臓が飛び出て、ぴくぴくと痙攣する蛙を見ても、命を奪ったという感覚は希薄だった。


 でも、自分で描いた魚の絵に筆をふるった、この瞬間、僕は死というものを鮮烈に感じた。死の息遣いをこんなに身近に感じたことは初めてだった。皮膚がびりびりと震えて、全身に鳥肌がたった。自らの手で殺めたという実感が喉に付着して、腫れあがり、唾を飲み込むことさえ辛かった。


 隠さなければ!


 咄嗟にそう思った。特に彼女、篠田にだけは見られてはいけないと思った。

 僕は乱暴にイーゼルからキャンバスを外した。振り向きざまにバケツに足が当たって、中身が勢いよく床にこぼれた。水は、薄く青みがかっていて、嫌な匂いが漂ってくるような気がした。

 呼吸を止めながら、普段使っていない棚にキャンバスを放り込んで、僕は逃げるように教室を飛び出した。

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