第4話

 それから、篠田は度々教室に来るようになった。彼女は僕の絵を見て、それから教室のなかをうろうろと歩き回ったり、机に腰掛けたり、後ろの棚をじっと見つめたりして、しばらくすると出て行った。

 その間、僕たちは言葉を交わさなかった。他愛のない会話、などというものを彼女は求めていないだろうし、必要ないだろうと思った。


 一度、僕と彼女の居る教室に顧問の先生が入ってきたことがあった。僕は気が気ではなかったけど、先生は何も言わなかった。彼女を一瞥しただけで、その後は何かぶつぶつと独り言を言いながら、ぐるりと部屋のなかを一周して、そのまま出て行った。さして教育熱心な先生でもなかったから、部員の顔などいちいち覚えていないのだろう。

 引き戸が閉められたあと、彼女は俯いたまま、「ひひっ」と空気が漏れたような笑い声を出した。顔までは見えなかったけど、彼女が笑っているのを見たのは、それが初めてだった。


 僕は絵を描き進めることを躊躇うようになった。魚の輪郭を何度もなぞったり、絵の具を混ぜ合わせたり、キャンバスの前で腕を組んで思案するふりをして完成を先延ばしにした。

 この絵を描き終えたとき、彼女がどんな反応をするのか気になったけど、それ以上に、この、慎ましく、静かな営みが終わってしまうことへの恐怖が勝った。それほど、僕にとってこの時間は尊いものだった。


 思えば、制服を着た僕の体は透明だった。毎朝、規則正しく寝癖がつき、それを直すことなく登校した。通学用かばんの肩掛け用の金具が壊れて、手で持って歩いた。身長が伸びたせいで、ズボンの丈が足りなくなった。だけど、それらは世界に何の影響も与えなかった。

 だから僕は、自分の体を使って周りの景色を写すことだけに努めた。息を潜めて、ただ、時が過ぎるのを待つことが僕の使命なのだと、本気で思った。


 今日も、第三特別教室の引き戸が開かれて、何も言わずに彼女が入ってくる。疎外感を忘れることができるのは、このときだけだった。

 何度目かで、彼女は建て付けの悪い引き戸の開け方を会得した。それは、僕と同じやり方だったけど、僕は何も言わなかった。


 いつも通り、隣に来た彼女はじっとキャンバスを見る。

 鼻をすすると、熱を持った冷気が通り抜ける。目頭にぶつかって、懐かしい匂いがした。

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