第3話
篠田は僕の存在に特別たじろぐ様子もなく、何も言わずに近づいてくる。何か明確な目的がある訳では無いけど、何の意味も無く彷徨っている訳でも無い、そんな足取り。
彼女は白かった。それは血の通っている感じがまるでしない、病的な白さだった。学校で見かけるたびに「マネキンみたいだ」と思っていたけど、今こうしてじっと姿を見据えても、その印象は変わらなかった。
将来、彼女はきっと人の死を看取る仕事をするのだろう。なぜだか分からないけど、不意にそう思った。
彼女はついに僕の隣まで来ると立ち止まり、それから、じっとキャンバスを見た。
僕は描きかけの体勢のまま固まってしまっていた。というよりも、動いてはいけないと思って自らその体勢を保つことに努めた。
肥大した細胞が全身でひしめきあう。僕の体は呆然としているようで、何かが起これば即座に反応できるほど張り詰めていた。唾を飲み込みたかったけど、緊張していることを悟られると思って、それも出来なかった。
黒目だけを動かして、慎重に、彼女の横顔を見る。
睫毛。薄い唇。口元のほくろ。白い喉の微かな振動。マネキンのような、つるりとした表面ではなく、肌理の細かい人間の肌。彼女の体温が僕の中で脈打つ。
見てはいけないものを見てしまったと思い、咄嗟に目を逸らす。
そのとき、彼女が「魚、魚」と呟いているのが聞こえた。それはほとんど呼気に近かった。空気を多分に含んだ色彩を持たない声。どうして、そんな頼りない発声で、言葉を縁取れるのかが不思議に思えるほどだった。
その後、彼女はキャンバスから離れて教室のなかを例の足取りで歩き回り、しばらくすると、教室の隅に追いやられている机の上に腰掛けた。制服のスカートは暗く沈んだ濃紺で、色のせいか、とても重そうに見えた。そこから投げ出された脚を持て余しているみたいにぶらぶらと揺らしながら、上目遣いに前髪を気にしている。
彼女は終始、僕の姿など見えていないかのように振舞った。だから、「絵、好きなの?」と彼女が突然話しかけてきたとき、それが最初、自分に向けられた言葉だとは思わなかった。
僕と彼女しかいない教室で、僕は僕が思っている以上に、精緻さを欠いていた。
「うん、まあ」
「好きなんだ、いいな、そういうの、羨ましい」
僕の曖昧な返事に、彼女は靴下を伸ばしながら、そう言った。
羨ましい。その言葉を信じるには、彼女の様子はあまりに軽薄で、所在なげだった。
「誰でも描けるよ」
「そうかな」
「描けると思う」
彼女は「ふうん」と間延びした声を出す。そして、机から降りて、どこかに行ってしまった。
ひどく喉が渇いていたから、引き戸を開けて特別教室とは反対側にある冷水器に向かう。冷水器のペダルを踏むと、水がちょろちょろと流れる。水圧が弱いせいで、背中を丸めて、顔を寸前まで近づける必要があった。その姿は卑しくて、篠田には見られたくないと思った。
濡れた口の周りをワイシャツの袖で拭きながら廊下を歩く。成熟しきっていない夜が僕の周りを青い光で満たしていた。キャンバスに描いた鱗は、とっくに渇いてしまっているだろう。そんなことをぼんやりと思った。
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