第2話
美術部の活動場所である第三特別教室に出入りするのは顧問の先生と部長の僕だけだった。他の部員は入部早々、すぐに活動に飽きて来なくなったし、一度も顔を見せない部員さえいた。
顧問は定年を過ぎた白髪のおじいさんで、彼もまたほとんど姿を現さなかった。たまに部活に来たかと思えば、何やら聞き取れないうわごとのような言葉を発したり、教室のなかをふらふらと徘徊したり、分厚い遮光カーテンの隙間から外の様子を眺めたりするだけだった。
特別教室の入り口の引き戸は建て付けが悪いのか、滑らかに開かず、高確率で途中で詰まるような感覚とともに動かなくなる。そういうときは、少しだけ戸の位置を戻して、勢いをつけて一気に滑らせると楽に開く。何度も繰り返すうちに心得ていた。
僕は教室に入って、後ろの棚からキャンバスを取り出してイーゼルに立てかける。そこには黄色と紫の二匹の魚が描かれている。いや、正確には紫の魚は描きかけだった。
なぜ、魚を描いているのかは自分でも分からなかった。カーテンから漏れる光の粒が鱗に見えて、そこから着想を得たのかもしれない。ただ、なんとなく筆を走らせていたら魚に見えてきて、そこから成形していっただけだったような気もする。
いずれにせよ、僕は魚のことが好きな訳でも、魚について詳しい訳でもなかった。だから、構造が正しいかとか、そういう実際的なことは一切顧慮していない。
これは、誰もいない海を泳ぐ魚の絵だった。
水を汲んできたバケツに筆をつけて、ふちで軽く水を切ってから穂先を整える。そして、パレットに出した赤と青の絵の具を混ぜ合わせる。筆でなぞった輪郭が浮かんでは消えてゆき、それぞれの色の境界が曖昧になる。二つの色が一つになるというよりは、形容できない無数の色になるような錯覚を覚える。でも、一度脱力するとその錯覚も霧散して、もう僕はその色を紫としか認識できなくなる。
水を多めに含ませた筆をキャンバスに置くと、紫色がひとりでに広がる。産声を上げ、全身で呼吸をして、やがて眠りにつく。描いているのは紛れもない自分自身なのに、この滲みの行く末は僕にも分からない。それが好きだった。
二枚目の鱗を描き終えたとき、入り口の引き戸が途中まで開かれた。続けて、力ずくに開こうとする乱暴な音。どうやら建て付けの悪さに苦戦しているようだ。
しばらくの格闘のあと、ようやく引き戸が開かれると、一人の生徒が教室に入ってきた。
知っている顔だった。ただ、彼女は部員ではなかった。
同じクラスの、確か、篠田という女子だ。
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