楽園

伊毒

第1話

 今日は隣の席の生徒が休みだったから、窓の外をゆっくり観察することができた。

 横たわる街。その様子を眺めている山。稜線がはっきりしているせいか、空に貼り付いているみたいに不自然に見える。四角い箱のような建物。その二階の窓から灯りが消える。隣に建っている、瘡蓋のような色をしたマンション。

 生徒から岡ちゃんの愛称で親しまれている体育の先生は、あのマンションに住んでいるらしい。なぜ知っているのかというと、クラスメイトがそんなようなことを話しているのが、最近、聞こえてきたから。

 岡ちゃんはよく笑う快活な人で、人気のある先生だった。だけど、彼が笑うとき、眼だけが、しん、と不自然なほど落ち着いていて、どこか遠くを見ているのを僕は知っていた。

 多分、みんなはそれに気づいていなかった。


「おーい、聞いてるかー」


 景色から目を離して正面を向くと、担任の先生がこちらを見ている。自分が注意されたことに気づいて「すみません」と言ったつもりだったけど、出たのは擦れたような音だけだった。

 ざわめきが止んで、嫌な静けさが教室を包む。外の廊下が騒がしいせいで、それは余計に際立った。空気がピキッと鳴った気がしたけど、気のせいかもしれなかった。

 先生は呆れたような顔をして、わざとらしくこめかみをとんとん、と指で叩く。

 それから、「何の話してたんだっけかな」と言うと、数名のクラスメイトが笑い、それが徐々に伝播していき、やがて、白けた教室は元に戻った。

 僕はほっと胸を撫で下ろした。でも、それまで、居心地の悪さを誤魔化すために、痛くもない首を気にする振りをする自分が情けなかった。


 帰りのクラスルームが終わり、そそくさと教室を出て職員室に向かう。踏みながら歩くせいで上履きの踵はぺしゃんこに潰れてしまっている。そのせいで引き摺るような歩き方を強いられた。何度か「みっともない」と生徒指導の先生に注意を受けたことがあったけど、僕には新しい上履きが必要だとどうしても思えなかった。


 職員室に入ると、教室とはまるで違う匂いがした。ここに来るといつも体の周りに膜が張って、あらゆる動作が緩慢になる気がしたし、空気はいつも乳白色に濁っているように見えた。

 入り口のすぐ近くの壁には様々な教室の鍵がかかっているボードがあった。そのなかの『特別3』と書かれた鍵をフックから外す。

 鍵を借りるときは近くにいる先生にその旨を伝えなければならないというルールがあったけど、以前、ここから一番近い席に座っている若い男の先生に「毎回、いちいち言わなくていいよ」と面倒くさそうに言われてからは、それも守らなくなった。

 わざと、投げやりな態度で鍵を取るのは、ルールを破っていることを別の先生に見つけて欲しいからなのかもしれなかった。

 そのときは、この人が主犯であることを告発してやろうと頭の中で画策していたけど、周りの先生たちはそんなルールにさして興味がないようで、その機会が巡ってくることはなかった。


 職員室を出てすぐにある階段を駆け上がる。生徒たちの教室がある三階までは明るいのに、四階になると途端に薄暗くなる。まるで人々の目から隠されているみたいで、地面からは離れていっているのに沈んでいくような気分になった。

 踏み板の端には金属の板が取り付けられていて、踏むと軽快な音が鳴るのが面白くて、そこをわざと踏みつけながら上った。

 甲高い金属の音。

 僕は、乗っている船が沈没して、救難員に存在を知らしめるために、鉄パイプか何かで船体を叩く自分の姿を想起した。


 途中、階段を下りてきた浅黒い学年主任の先生と鉢合わせた。彼は何も言わなかったけど、僕のことを訝しげに眺めてきて、それは不調を訴える患者のレントゲンを見る医者の顔に似ていた。どこか異常なものが無いか探している、そんな顔だった。

 息を潜めてすれ違う。僕は会釈もしなかった。急いでいる訳でもないのに、今までよりもスピードを上げて階段を上った。歩調が乱れたせいで、転びそうになって、慌てて手すりを掴む。

 じんじんとした熱に震えるひ弱な脚は、悲しいほど頼りなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る