第36話
見上げると湿気た空があった。
タバコの煙のせいで雲は灰色に濁っていた。
隙間から除く青に手を伸ばす。
木のベンチは腐っていて、壁を隔てた隣には小さな夢の国があった。
パンダの頭がベンチに置かれている。
りりはパンダの大きな身体から顔を出して、タバコを咥えていた。
りりが動くたびに、腐った木のベンチが軋む。
底が抜けて落ちそうで、りりは青に伸ばした手を引っ込めた。
「レジの金額が合わない。今月はこれで三回目だ」
同僚のしげはるが悪態をつきながら喫煙所に入ってくる。
入ると言っても夢の屋上遊園地とデパートの間には薄いベニヤ板が一枚。そんな壁で現実なんて隠せるわけなくて、子供たちはみんな外来種のネズミに夢中だ。
「誰かがレジの金を横領しているに違いない」
「合わない分はどうしてるの?」
「俺の財布から小銭を出して調整している」
それって関節的に財布から金を盗られているのと同じだ。
クソみたいな人生だねって笑い飛ばしたかったけど、パンダに人生をとやかく言われたくないだろう。
しげはるも社会の歯車の潤滑油として満足している。
慣れた手つきでタバコを口に咥えて火を着けた。
こんな彼にも前世があって、こんな彼でも来世は無双できる。徒競走や勉強では何の苦労もなく一番。だから、老後なんかよりも若々しく瑞水しい大切な時間を自分がやりたいことに使うことができて、そのことに圧倒的な自由を感じることができるはずだ。
りりがそうだった。
そして不自由であることに気づく。
「自分の前世ってなんだと思う?」
そんな質問が口から零れた。
「ずいぶんと楽しい話題だな」
「たまにはね」
「うん、そうだな……」
しげはるは少し考えて答えを出した。
少し考えたってことは、しげはるに前世はない。
りりの場合は、少し考えなくとも、前世はりりおだ。
「俺の前世はカマキリのオスだ」
りりの頭にはハテナの味が広がった。
しかし、それはすぐに消化される。
人の前世が人じゃないことだってある。りりの前世はりりおで、しげはるの場合は妄想だけどカマキリ。そしてオス。
「どうしてオスのカマキリ?」
「カマキリのオスはエロいことしている最中にメスに食べられて死ぬ。前世がそんな死に方なら、俺が26歳でまだ童貞なのも納得できるだろ?」
「……くだらないね」
「前世なんて、くだらないだろ」
「カマキリのときにはできなかったことをやろうとは思わない?」
「なんで俺がカマキリなんかに縛られなきゃならないんだ」
「……そうだよね」
しげはるを肯定することで、大切な何かを否定した。
「お前の前世はなんだったんだ?」
「クマノミかな」
りりは灰皿にタバコを擦り付けた。
腐った木のベンチから立ち上がる。
「どうした?」
「やらなきゃいけないことができた」
りりはベンチに置かれていたパンダの頭を装着して、りりパンダになった。
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