第30話

 りりの原罪というのは死んだのに生き返ったことにある。自らが十字架の磔によって処刑されるイエス・キリストのやり方では償うことはできない。罪を抱えたままのうのうと生きていたりりをいじめという形で指摘したのがアリスだ。いじめという罪はギターにより償われる。その証人となったのがトリノだ。


 人間の罪を償うのは証人が必要だった。


 演出家、篠崎りりは証人を観客と翻訳する。


 歩きながらりりは自分の罪を数えていた。


 体育館の電源を落とす。二回目ともなれば慣れたものだ。運営側も何もりり対策をしていない。舐めたものだ。 


 重たい扉を片手で開く。


 ざわざわとした今日の観客たちに内心あいさつを送る。


 後ろの方にいた数人がりりの登場に気づいていた。見知った顔もいる。暗闇なのにサングラスをかけているアイツは滑稽でりりも思わず笑った。彼らはどれくらい体育館で待ったのだろうか。観客の何人かは座っているのを見るに、前のバンドからしばらく時間が空いたのだろう。


 りりがわざわざ遅れてきた理由はない。


 雰囲気作り。


 つまり演出だ。


 去年のようにベースを片手で持って、恐ろしく足音を立てながら真ん中を堂々と歩く。


 もちろんちょっとは恥ずかしいけど、これからやることを考えたら浴槽に入る前に体を流すてきなあれだ。水に入る前に、水で濡らして、少しだけ水に慣れておく水泳部員の心得。



「おそいよ」



 ステージの上からトリノが手を差し伸べた。りりが登場したときから、というか体育館が暗闇に包まれたときからドラムの前から移動していた。りりはベースをトリノの横に置いて、手を取った。一人でも楽々登れるステージの高さ。足をかけて、ひょいと跳ぶ。トリノの背は低かった。目はクリクリしていて、小動物のよう。頭を撫でれば髪はまだ幼く若葉のように生きていて、不思議そうに首を傾けるとサラッと落ちた。耳を触り、頬をつまむ。りりはそのままトリノにキスをした。



 キスする方が高いの。される方が低いの。



 りりの唇が触れた瞬間それは少し冷たくて、眼の奥に静電気のような衝撃がパチっと走り自らの座標を見失って、膝が笑う。踵がベースにぶつかった。りりの手が腰に回り、支えられる。唇が離れてしまって、その顔が暗闇の中で笑っているのかいないのか。もう一度、トリノはりりに顔を近づけるが、鼻の頭に指を置かれて静止する。



「また今度。今は、ドラムを叩いて」



 トリノは素直に頷いた。


 りりが観客の方をチラッと見ると、暗闇でもはっきりと分かるほどの困惑が場を支配していた。面白くて笑う。


 りりは妙に落ち着いていた。

 ゆったりと歩いてキーボードの前に立つ。


 ホタテは自分の口を左手で隠した。奪われると思ったのだ。



「それ勘違い」



 りりは上着を脱いだ。ウサギの耳よろしく、バニーな服装だったが、りりのそれは普通のバニーの衣装ではなく、まるで痴女のような逆バニー。これで教師は去年のように電気を付けることができなくなった。



「今日はこれでやるから下着土下座は許してね」



 ホタテは口をふさいだままこくんこくんと何度も頷いた。


 りりは脱いだ上着からタバコとライターを取り出す。センターにあるマイクの前まで戻ると、口にタバコを加え、マイクが音を拾うように近くでライターをカチッと鳴らした。


 誰も何も言えず、一歩も動けない。


 暗闇に白い靄が生まれた。


 りりとアリスの目が合う。


 りりは首を傾げて、首筋を見せた。穢れのない清らかな肌。タバコの先端を当て、ねじる。りりは苦悶の表情を浮かべて、白い歯だけを見せて笑顔を表現した。



「……」



 アリスは何も言わなかった。


 火の消えたタバコをステージの上に捨てる。

 りりはマイクに唇を近づけて、ぼんやりと口を開けた。



「リンデンリリー」



 反応は無い。


 盛り上がるはずがない。この場がお化け屋敷だというなら、観客は全身をこんにゃくのような触手によって撫でられ、何が起きているか分からず、ただこの異常な金縛りが終わるのを待った。


 りりはベースを拾う。


 アンプに繋げて、音を確認しながらマイクに声を入れる。



「あー、二曲目。カバー。『うさぎ』」



 なぜか、二曲目を宣言した。

 今の暴れが一曲目だったのだ。


 つまり二曲やる予定だったけど、一曲しか用意できなかったってことだ。


 シンとする。


 シンバルの音四回から、曲が始まる。異国の地のサイレンのように鍵盤が落ち、地獄の着信音のように弦が弾ける。音はみぞれ、雨と雪、低音と高音が混ざり合う。ギターの傘が開いて、りりは冷たい手に暖かい息を吐きかけるように死んだ天使の歌を生む。


 死んでる天使はベースを満足に弾けない。その凡人特有の悲しさを天才の口から表現すると地産地消の感情によって歌は極まる。


 これだと思える幸せな時間が過ぎていく。


 観客の聴覚を支配する。


 サビを歌っているとりりの心に恐怖心が芽生えてくる。


 それはこの光景がトラウマを呼び起こすからだ。


 曲が終わった直後、自分はまた殺されるのではないか。


 あの日、どうして殺されたのか。それが分からないから、今も怖い。


 リンデンリリーの演奏が極まっていると確信すると同時に、恐怖は深まって広がって息が苦しくなって、よりりりの歌を磨いていく。


 後悔はない。


 死んだとしても遺恨はない。


 みんなにしてきた悪いことの償いはさっき済んだし、この時間はボーナスタイムみたいなものだとりりは思っていた。


 アウトロに入って何が起こってもいいように覚悟を決める。


 ここで死んだら満足だ。


 何か一つを極めたし、これだと思える何かをやった。


 目を閉じ、口を閉じ、ベースだけに集中する。


 するとりりはあることに気づく。


 空気に流れる低音に耳を傾けると、自分のベースが極まっているようにも思えてきた。


 気のせいだろうか。


 確信はない。


 時間もない。


 曲が終わる。


 音が止む。


 まだ、死にたくない。死にたいわけがない。せっかく新しいバンドを作ったんだ。『リンデンリリー』でやっていくんだ。満足なんて、できるはずがない。どうして、ここで死んでもいいなんて思ったんだ。ここで死んだら満足なんて、りりの気持ちではない。

 

 りりは仁王立ちをした。


 そして。


 銃弾よりも数千倍凶器的な何かが弾ける破壊の音がして、りりは目を開けた。

 自分の胸を見ても穴は開いていない。


 息が上がっているから、膨らんだり、縮んだり。


 生きてる。


 りりの右から空気が切り裂かれる音が聞こえて、振り向いた。


 アリスによって振り下ろされた壊れかけの青いギターが、ステージに衝突し破片を飛ばした。


 あんぐりと口を開ける。


 勢い余ったアリスが反転し、その場に転がる。


 盛大にこけたアリスは叫ぶ。



「これじゃねえ!」



 アリスの言葉は、銃弾なんかより痛かった。


 アリスはりりの青いギターに納得がいかなかった。


 死にたいのか、生きたいのか。満足なのか、満足できないのか。「これだ」なのか「これじゃない」のか。「極まっている」のか「極まっていない」のか。白か、黒か。まるで、分からない。もう、りりの感情はめちゃくちゃだ。


 りりはひっくり返っているアリスに対して、泣きそうな顔になりながら親指を下げた。


 アリスはひっくり返っているから下げたりりの親指が反転し、上向き、逆にサムズアップに見えた。

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