第8話
おじいのタバコ店の上はボクシングジムだった。フィットネスコース的なのもあって、女性でも入会しやすいジムだ。りりは、雨に濡れた鉄の階段をパオンパオンと上り、ふんすと勢いを付けてジムの扉を開く。
店内に入った途端にパーンと脳みそがはじけ飛んだみたいな音が鳴って、りりはびっくりする。
中央にあるリングではスパーリングが行われていた。
「あ、りりちゃん。よくきた」
細身のラーメンハゲみたいなメガネ坊主おじがりりに話かける。
「びっくりした。ハゲしいんだね」
「ん、あれだろ。うちの期待のルーキーだ」
このジムの人たちは、おじいの店の常連だから、りりのことも知っている。というか間接的に彼らを接客していたのがりりだ。おじいが死んで縁が切れるかとも思っていたが、りりは彼らに頼ることになった。
「おい直也、ちょっとこい」
坊主おじは、リングから出て水分を補給している男の子を呼ぶ。直也と呼ばれた彼は振り返ると、爽やかな好青年のようだった。りりからしたらお兄さんくらいの年齢に見える。イケメンだが、そこに魅力を感じることはない。りりの心は男の子だ。
「なんすか」
「この子。強くなりたいらしい」
「フィットネス系じゃなくて?」
直也がりりを見ると、りりは何度も頷いた。
「なんで?」
「ボコしたい相手がいるんだよ」
「ああ、そう」
直也はりりが格闘技を始めるキッカケをくだらない理由だと思った。
しかし正しい暴力を習う理由が、痩せたいとかモテたいとかよりは健全かと目の前の女の子を見て思う。
ここのジムに通う多くの女性がべつに殴る練習をしなくとも達成できる目標だった。
わざわざ暴力を習う必要はない。
でも、りりにはその必要があった。
「ということで直也、この子はお前の生徒だ」
「え、俺が教えるの?」
「りりといいます」
自己紹介をされて苦い顔になる。すごい面倒くさい。
りりは頭を下げたから、つむじが丸見えだった。
男の子の心を持ったりりにとってつむじが相手に見えるのは、パンツが見えるのよりも恥ずかしいことだった。つまり、りりが頭を下げるというのは稀であり、彼女のつむじは宝石よりも価値があった。
「そんな嫌だなって顔しないで」
「敬語」
「ください」
直也はいちおうトレーナーとしての役割を引き受けた。このジムに所属している以上はこういうのもやらないといけない。
ということで、直也によるりりのトレーニングが始まった。
ジムの端っこで二人は向かい合う。
「はい、これ」
「これは?」
「なわとび。とりあえず200回跳んで。終わったら外走ってこい」
りりはなわとびを受け取った。直也が持ってきたなわとびが黄緑なのが、なぜかムカつく。そこはピンクか、逆に黒だろう。黄緑のなわとびなんて、微妙だ。
「私、はやぶさできますけど?」
「……普通に200回跳べ」
「なんだよ。なわとびで強くなるなら、なわとびを極めます」
「……」
直也はイライラしたので、りりの右肩を蹴った。
いきなりのハイキックでりりはビクンと飛び跳ねる。
それから、脱兎のごとく外へ飛び出した。
直也は「ふん、逃げたか」とそれからりりに興味をなくしてストレッチを始めた。
しばらくして、ジムの扉が開かれる。
汗だくのりりが肩で呼吸をしながら立っていた。
「なんだ、逃げたんじゃなかったのか」
直也は本日の一連の流れを終えていた。ジャージに着替えて、プロテインを飲んでいたところに、りりが帰って来た。
「先に走ってきたのか。ほら、じゃあなわとびだ」
「なわとびを跳びながら、走ってきてやりました。走り跳びってやつです。もちろん200回は余裕で跳んで来ました。さっさと強くしてください」
「さっさとは強くならない」
直也はプロテインを置いた。ココア味の色だった。
りりに向かってグローブを投げる。りりは首を傾げた。
「それをはめて、リングに上がれ。好きなだけ俺を殴っていい」
直也はミットを両手にハメて、リングに上がる。
「うっす」
りりもそれに続いた。
リングに上がって、ファイティングポーズを取る。
「ミット撃ちだ。本来はミットを構えたところに撃ち込むけど、俺はミットを構えない」
「? じゃあどうするの」
「好きにかかってこい」
直也が両手のミットをパンと鳴らすと、りりは牛になった。
勢いよく接近して、直也に向かって連続パンチを繰り出す。りりのグーパンが来たところに、直也はミットを出して防いだ。これじゃあ、逆ミット撃ちだ。
「金的は狙うな」
りりは執拗に下半身を狙った。
顔、金玉、顔、金玉の順番だ。
ぶん、ぶん、とパンチを振り回すが、やがて疲れて勢いがなくなる。
縄跳びしながらウサギのように町を走ったのだ。足がガクガクしてしょうがない。
汗と疲れで朦朧とする視界の中で、余裕そうな表情の直也を見ていると、自分の身体が女であることを改めて認識させられる。
格闘技には男女の差みたいなのがあって、
「音楽にはなし、と」
口をパクパクさせて、りりは倒れた。
泡を吹いている姿は蟹みたいだった。
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