第7話

 りりは中学生になり、隣の席の女の子はかわいくて、その子にいじめられるようになった。仲良くなれそうだなと思ったけど笑顔の「よろしく」から嘲笑まではずいぶんと早く、ゴールデンウィークを過ぎるころには、りりの教科書は机から消えた。



「おはよう」



 隣の席の女の子は笑顔でりりに話しかける。


 名前は斎藤 アリスリア 有栖。


 ブロンドの髪がトレードマークのハーフの女の子で、彼女の欠点と言えば、りりをいじめているくらいだろう。勉強もできたし、運動もできた、そのついでに、いじめもできた。


 そして今は昼だった。


 アリスのいじめは、掃除の時間に濡れた雑巾で鼻や口を抑えつけるといったような直接的なものから、こうした昼に朝の挨拶をする精神的なものまで多岐に渡り、りりを飽きさせなかった。



「いももちー」



 りりも適当に挨拶を返す。こうしたりりの態度がさらにいじめを助長させた。


 もちろん、りりは平然としていた。


 いじめられているのに平然としているというのは、ある種、りりの人生の目標のようなものでもあった。



「りりは変人だね」


「……えー」



 そんな様子を見てトリノは寂しそうな顔をしながら呟いた。


 トリノに言われて少し傷つく。


 りりに自分が変なことをしているつもりはない。変人と言われて喜ぶような普通の人間ではないのだ。変人だと言われて傷つくのなら、ほんとうに変人なのだろう。本人にそのつもりはなくとも、りりは変なことをしている。



「手伝わせて。りりがいじめを受け入れても、私はりりが傷つくのは受け入れられない。君のためならなんでもする」


「私は変人と言われて傷ついたよ」



 放課後、りりは教室中の机に意図的に散布された教科書を回収していく、国語は小久保さんの机に、数学は涼宮さんの机に、英語は江藤さんの机に、そのうち教科の名前と頭文字が同じ人の机に隠されていると気づく。社会の教科書がりりの机に入れられたままだったのは、りりの苗字が篠崎だからだろう。



「ずいぶんと手が込んでるね……」



 回収を手伝ってくれたトリノがそんな感想を漏らした。


 手の付けられていなかった社会の教科書を裏返すと、りりの名前に打ち消し線が引かれ、その上に、篠崎という名前をもじったのであろう、『死の先』とマジックで書かれていた。


 それを見たトリノがぶわっと激昂する。長い黒髪が浮いた。



「こういう子供っぽいこともするみたい」


「私がガツンと言ってやる」



 りりはそれでも穏やかだった。



「ありがとう。大丈夫」



 りりのことを死の先と表現するのは言い得て妙なのではないだろうか。



「冴えたやり方を知っているから」



 りりは落ち着いているがトリノは釈然としない。


 りりがこんな状況を良しとしたのは、いじめられているという状況は都合が良かったからだ。それは、何か一つを極め、いじめをなくすという、りりの思想の根源のようなものに挑戦する機会が与えられたということでもあるから。


 そして、りりはベースを持って登校した。その日は文化祭だった。


 季節は秋。

 肌寒くなってきただろうか。ブレザーの下にインナーを着る。


 少し遅れて登校する。ベースなんて目立つものを持って登校したら、アリスに何をされるか分からない。りりは自分たちのクラスの出し物をさぼった。りりに与えられた役割はいくらでも代わりがきくもので、いてもいなくても変わらない。


 スケジュールと時計を見比べながら、りりはトイレで待機した。


 登場するなら部活動紹介の最中、軽音部の発表の前が相応しい。ステージに機材も用意されていることだろう。そいつを勝手に使ってやる。軽音部には申し訳ないが、前座くらいに思ってくれたら幸いだ。

 そしてりりは演出にこだわった。


 体育館の電気を消すと、中から悲鳴が聞こえてくる。りりは楽しくなってニヤッと笑った。音を立てながら重たい扉を開くと、暖かい風が頬を撫で、りりは顔をキュッと引き締める。思えば、誰かにベースを聴かせるのは初めてだ。もちろん、犬猫は経験に含まれていない。


 暗い体育館に外からの光が漏れた。


 左手にベースを握り、困惑する群衆の真ん中を堂々と歩く。


 ステージに飛び乗ると、アクシデントに困惑している軽音部の部員がいた。



「これ、借りるよ」



 部活の備品であろうアンプをりりはいじる。

 ケーブルを差し込むと、キュっと音が鳴った。



「え、君が演奏するの?」


「停電だろ? 復旧するまで、私がつなぐよ」


「アンプの電気は入ってるから停電ではないと思うけど……」


「じゃあ誰かが電気を消したんだ」



 自作自演である。


 りりが立ち上がって、弦を弾くと体育館に低い音が響いた。


 ボンボンと悪魔のような低音を鳴らす度に、電気がチラホラと灯り始める。


 ステージの上のライトが戻ったところで、りりの演奏が始まった。


 最初の音が鳴ると、群衆は心臓を低音で握られる。


 りりのベースは恐ろしく遅い。


 ベースのリズムでしか、心臓は動かない。鼓動は狂い、観客は苦しさに顔を歪める。息はできない。口や鼻を塞がれているようだ。


 ひゅーと口笛が聞こえてきた。


 りりが目を向けると、ドラムの少女が冷や汗を浮かべながら、りりとのセッションに参加する。


 細くて小さな指が弦を滑り、一番低い音が鳴ると、心臓にドクンと響く。


 そこでようやく呼吸ができる。


 遠くにいるアリスと目が合う。


 とても苦しそうな顔をしていた。



「あはっ」



 りりは満面の笑顔になって「これだ」と確信した。





 後日、りりがトイレをしていると上からバケツと共に冷や水が落ちてきた。

 その冷や水の冷たさは、あの日の雨に酷似していた。

 バシャンと音を立てて、それなりに濡れる。



「あれ?」



 いじめは続いた。

 りりのベースは極まっていなかったのだ。

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