第4話

 前世の記憶を覚えている、というのは不思議なことだが、赤ちゃんの頃の記憶を覚えているということこそ、真に不思議なことだった。不思議なこと以上に、赤ちゃんの頃の記憶なんて、恥ずかしいことが多い。とくにりりは、心は男の子なのに、身体は女の子だし、もしかすると、これからチンポコが生えてくるのではないかと期待していたが、生えてきたのは乳歯だけだった。


 人生でいくつも存在している選択において、最初の選択を覚えている人間は赤ちゃんの頃の記憶を覚えているりりしかいない。りりの人生に訪れた最初の選択は、右のおっぱいか、左のおっぱいかということだった。もちろん、それは難問だった。


 おしりかおっぱいかの選択で悩んでいる男子など、愚かであると気づいた。


 立派な大人になった全ての人が、右のおっぱいか、左のおっぱいか選んできたのだ。立派な大人になるとはそういうことだ。りりおに子供はいなかったので、りりには親の気持ちが分からない。しかし、立派に育つ赤ちゃんと、立派に育てるお母さんの偉大さに、唯一、赤ちゃんの視点から気づくことができた。


 りりは右のおっぱいを選択する。



「よちよち。りりちゃんは左のおっぱいが好きなのねー」



 この選択を立派な大人が誰一人覚えていないのは、りりから見たら右のおっぱいでも、お母さんからしたら左のおっぱいだという、底知れないやるせなさがあったからだろう。


 りりはたっぷりおっぱいを飲んだ。


 生えてきた乳歯で、お母さんの乳首を噛まないように気を付けながら。


 最初はそんな乳だけでお腹いっぱいにならないだろうと思っていたりりだが、飲み終わると満足そうに小さくげっぷをした。



「りりちゃんは良い子ですねー」



 げっぷして褒められる。

 そんな経験を覚えているのは、唯一、りりだけだ。




◇◇◇




 りりは他人の人生を追体験することが趣味になった。その人生をりりおの人生と比べることができたら、それは架空のものでもよかった。例えばロールプレイングゲームをりりはプレイしていた。ドラクエのことだ。ビアンカでもフローラでもなく、りりはデボラを選択した。きっと、それは黒髪の派手なギャルというのがりりおの性癖だったから。


 りりの心は生まれ変わってもりりおだった。つまり男の子の心だった。しかし身体は、小さな女の子で、その小さな身体に溢れんばかりの夢を持っていた。その夢はもちろん、何か一つを極めること。そして、その何かというのを今のりりは探していた。



「で、ゲームは違うかな」


「あ、そうなんだ」



 りりはこの年齢になってようやく、友達ができた。このまえおじいの店に迷い込んだトリノである。この年齢になってというのも、りりは11歳だが、彼女には紀元前的な時期があるので、なんとなくおかしな感じはある。


 りりは初めてできた友達に夢を語った。


 もちろん、なぜそのような夢を抱くようになったのかというのは秘密も秘密、お母さんのお腹の中の話をするようなものであるから、絶対に秘密である。


 話すとしたら、トリノも同じくらいの秘密を教えてくれたときだ。



「ゲームを極めるのって例えばなんなの?」


「プロゲーマーてきなだよ」


「ふん?」



 トリノは優等生な女の子な分、こういうエンタメ系に疎い。クラスでは委員長だった。ゲームのプロって言われても想像ができない。トリノが得意なゲームは、指スマとかだった。


 実際、りりの部屋でパーティーゲームをして遊んでいても、戦績はよくない。


 頭の良いトリノだから、桃鉄とかは勝てそうだが、地元でも迷子になるくらいには方向音痴なので負ける。ピンクの矢印通りに進まない姿はロックンロールとも言えたが。



「じゃあ、おじいさんのアフレコをしてたのは声優てきな?」


「お、わかるねー。でも、声優も違うかな」



 トリノには理解力があった。



「違うなって感じるのはなんで?」


「なんか順だと違うんだよね」


「ふん?」



 りりにはトリノの癖が見抜けた。理解力のあるトリノでも、分からないときは、ふんと喉を鳴らす。なんだか、動物みたいで可愛い。


 まあ、人間も動物かと、りりは思いなおす。

 人間と動物の違いなんてもうりりには分からない。

 最近、喋る動物と出会ったのだ。


「逆にいかなきゃ、これだって思えないんだろうね」


「よくわかんない。理屈じゃなさそうだ」


「そだね。そもそも、二回あること前提だし」


「なにが?」


「機会が」


「何の?」


「秘密」



 逆へ行くことは、りりにとって気持ちが良かった。それは理屈ではない。


 人生の追体験の一環として小説を読んだときに、作中で表現された主人公の結論とは逆へ行く。りりは主人公の結論が過激な純文学が好きだった。彼らが出した結論の逆は行くのが簡単だった。例えば、挨拶の必要性の無さを結論とする小説を読んだときには、りりはお母さんに元気な声で挨拶した。元気な声で挨拶するのは、気持ちが良かった。


 逆行。


 それがりりの哲学だった。



「じゃあ、そこにベースが置いてあるけど、ベースの逆だからギターに行きたいの?」


「いや、ギターの逆を行った結果ベースだよ」


「ああ、そう」



 トリノはかわいらしいりりの部屋のインテリアとは逆を行っているようなかっこいいベースを見た。音楽のことなんて、良く分からないが、四本の弦のギターっぽい楽器がベースであることくらいは知っている。



「ギターの逆はベースだけど、ベースの逆はギターかな?」


「なにそれ?」


「おっぱいの逆はおしりだけど、おしりの逆はまんこだよね」



 りりに品性はなかった。

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