第32話 寵姫アルナブ

 このアルファイドという人間はよくわからない。

 フィオナはそう思った。


 この後宮というところに、たくさんの女の人を揃えているらしいが、そんなに面倒見がいいのだろうか?

 自分を後宮に連れてきた意味がわからない、フィオナは首を傾げた。


 とはいえ、ドレイク以外の人間については、あまり興味がないフィオナは、他国に連れて来られても、見知らぬ人に食事を与えられても、そう深く考えることはなかった。


 いざとなれば、すぐ脱出するつもりであったし、不思議と、フィオナは不安がなかったのである。

 さらには、本当に困ったことになれば、黒竜に心が通じるような、そんな気がしていた。


(助けはある、なぜかそう思えるわ……)


 フィオナは無意識に、右の耳に嵌め込まれている、赤い宝石を指先で触った。


 相変わらず、ドレイクに会いに来た以前の記憶はないし、自分が何者なのかも、よくわかっていない。


 それでも、何の苦労もなく、黒竜と話ができること、ウサギに変わる、という点も、今までのように突然、自分のコントロール外のところで起きてしまう、というシチュエーションが変わってきた。


 今では変身の予兆が感じられるし、どんな時に変身してしまうのか、フィオナにはその感覚が掴めてきたのだった。

 意図的に、ウサギに変わることもできるようになってきた。


(この人は、なぜわたしを連れてきたのだろう)


 今、フィオナは寵姫ちょうきアルナブとして、お披露目という名前の宴会に出席していた。


 女性はベールで顔や体を隠すのがしきたりのアルワーン王国。

 おまけに、国王以外の男性はご法度の、後宮の寵姫である。


 フィオナも大勢の来賓に対して、その姿を晒すわけではない。

 そこがおかしなところなのだが、その大事な寵姫をお披露目する、要は自慢する、ということで、フィオナは豪奢な衣装を着せられて、幕で囲まれた特別な席に座っていたのだった。


 ふんだんに金の刺繍が施された、どっしりと重い絹のカフタン。カフタンに合った、同じく金刺繍のベールを頭から被っている。

 カフタンの下にはシャルワールを履き、ちょこんと覗く足先にも、金刺繍の小さな靴が見えていた。


 その素顔は見えないまま、人々は幕の間から見える豪奢な衣装を見て、「お美しい」とか「大事にされているご様子」などと囁き合うのだった。


 カフタンの袖から覗く細い手首にいくつも付けられた金のブレスレットや、胸元に光る重い金の首飾りなどを見て、そう言っているのかもしれない。


 フィオナはぼんやりとそんなことを考えていた。

 アルファイドは酒の入ったグラスを片手に、客人との会話に夢中になっていた。

 一方、フィオナは薄い幕で仕切られた座席から、動くことは許されていない。


 さまざまな種類の飲み物や果物、大皿に盛り付けられた料理が次々に運び込まれるが、食べるのにも、飽きてしまった。


(退屈だわ。もう、ウサギになっちゃおうかな)


 フィオナがそんなことを考えていた時だった。


「アルナブ様、お酒はいかがでございますか?」


 ちょっとハスキーな声をした女性に、背後から声を掛けられた。


 フィオナが振り返ると、紺色の侍女のベールを付けた、妙に太った女性が、フィオナの背後に控えていた。


「いいえ……」


 フィオナが断ろうとすると、その女性はことさら親切さを装う声で言った。


「桃のお酒でございますわ。甘くて飲みやすいですから」


 そう言って、フィオナのグラスに、酒を注いだ。

 その時。


「今夜助ける。部屋で待て」


 そう、馴染んだ声が告げた。


「ドレ……!」


 思わず上げそうになった声を、フィオナは飲み込んだ。

 ベール越しに、懐かしい黒い瞳が、フィオナを見つめていた。


「…………」


 フィオナがじっとしていると、黒い瞳が、フィオナだけにわかる優しさを伝えて、紺のベールの女性は下がっていった。


 それからの時間は、長い長い時間だった。

 食事が供され、歌や踊りが披露される。

 夜が更けて、女官がフィオナを案内して、宴会の席を辞したのは、もう夜中に近い時間だった。


 * * *


 フィオナは寵姫となったアルナブのために、新しく用意された部屋に入った。

 部屋には最低限の明かりが灯され、薄い夜着に着替えさせられたフィオナがベッドに入ると、天蓋が下され、侍女達も退出したようだった。


 フィオナは安心して待っていた。

 ドレイクは、いつもフィオナを助けてくれたから。

 フィオナがこの人と一緒にいたい、そう決めたのが、ドレイクだったから。


 ドレイクがもうすぐ来てくれる。


 ベッドを囲む天蓋の向こうに揺れる人影を見た時、フィオナは期待から微笑んだ。


 しかし、次の瞬間、フィオナの瞳には困惑の色が広がっていった。

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