第60話 仲良くしようぜ

 教室棟三階の大教室は、通常の教室を三つほど連ねたような大きさである。


 二人が入った扉は教室の一番後ろにある二つの内の一つで、そこからは部屋全体が一望できた。奥の講壇に向けて床が段々に下がっていく構造で、その段ごとに三、四人掛けの長机と長椅子がいくつか設えられている。儀式のあった大講堂ほどではないにしろ、二学年分は門徒を収容できようかという広さだ。


 アイラは後ろの流れを留めないようにそろそろと歩を進めながら、教室内を眺めた。先に入室した新入生たちがばらばらと座っているところを見ると、自由に席を定めて良さそうだ。アイラはシャルロッテと目配せして、教室の中程に位置を占めることにした。


 さて他にはどんな人たちがいるのだろう、とアイラはそわそわと辺りを見回す。シャルロッテはまだ同じほど乗り気にはなれなかったが、なるべくアイラと同じ方向に目を向けるようにした。


「あっ」


 と、アイラが小さく声を上げた。なんだなんだ、とシャルロッテがその目線を追うと、誰しもが敬遠する最前列に一人で腰掛けている黒髪の少女の姿がある。


「アイラ、あの子も〈穂先〉の?」


「ええと――」


 シャルロッテの問いかけにアイラは一瞬言い澱んだ。と言うのも、こちらからは後ろ姿しか見えないので、一度会っただけのアイラには断言しかねたからである。


 しかしその人物は、その一度きりで強烈な印象をアイラに残したことも確かだった。先ほど中庭でサイサリスの後ろ姿を捉えた時と同じように、アイラはその艶やかな短い黒髪と、ぴしりと美しい居ずまいを後ろから見ただけで、前にいる彼女の面差しをまざまざと思い浮かべることができた。


 ゆえに、アイラが言い澱んだのはほんの一瞬に過ぎない。


「――うん、〈あけめ〉のカーリマンさん。かっこいいんだよ」


 あの太く美しい眉と凛々しいおでこを、アイラは忘れることができなかった。


「ふーん。アイラの友達候補だな」


 その横でシャルロッテは他人事のようなことを言うので、アイラはわざと先ほどのように頬を少し膨らませて見せた。


「私のじゃないよ、シャルもだからね」


「ええ! あたし硬派な人間とはやってける気がしないなー」


「そんなの、ちゃんと喋ってみないとわからないでしょ? 私のときみたいに、自然体でいったらいいんだよ! 私は嬉しかったけどなあ、シャルが気さくに話してくれて……」


「いやいや、あれはアイラが話しやすそうだったからで……うぬぬぬ」


 アイラに諭されて、シャルロッテはしばらく唸っていたが、突然意を決したように立ち上がった。


「うっし、わかった。行ってくる」


 そう言うなり、シャルロッテはアイラの隣を離れると、長机を抜け出し、通路をつかつかと前へ進んでいく。


「え? え!? ちょっと、シャル!」


 行くって、もう行っちゃうの!? は、早すぎない!?


 アイラが驚いている間に、シャルロッテは黒髪の少女の面前へとその姿を躍らせた。


 行くと決めたら行く女、シャルロッテである。


 アイラが椅子から腰を浮かせておろおろと見守る中、シャルロッテはカーリマンに向かって何らもったいぶらずに語りかけた。


「初めまして、あたしシャルロッテ。仲良くしようぜ!」


 アイラのいるところは彼女たちから三列ほど後ろに位置していたが、前方に座る生徒が少ないせいで、そのやりとりは難なくこちらの耳に届いてきた。カーリマンの頭があまり動いていないところを見ると、彼女は目だけでシャルロッテを見上げているのかもしれない。


 シャルロッテが手を差し出したのが見える。握手を求めようというのだ、あのカーリマンに。


 アイラは自分が渾身の笑顔に会釈しか返されなかったことを思い出して、どきどきしながらその行く末を見守った。


 これに対してカーリマンが発した声は大きいわけではなかったが、目の前の相手にはっきり伝えるだけの声量は持っていた。そしてそれは、意識を集中させていたアイラの耳へも伝わった。


「そう……私はカーリマン。でも、あなたとは仲良くしない」


 それだけ言うと、カーリマンの頭が少し動いて下を向いた。手元の方を向いて、もうそれ以上は動きそうにない。


 シャルロッテは握られなかった手を引き戻して一人うなずくと、不意にアイラに視線と声を投げた。


「だめだアイラー、こいつ話通じねえわ!」


 当然それは、こちらはおろかさらに後方の席まで聞こえようかという声量でだ。


(や、やめてーーー!)


 アイラは顔を青くしてその声を受け止めたが、当のシャルロッテは怒っている風でもない。なんなら彼女は笑っているのである。そしてあろうことか、戻り際に目の前の相手へさらに一声をかけるのだった。


「んじゃ、またなカーリマン」


 玉砕したはずのシャルロッテが、るんるんと通路を上がってくる。


 と、それを追うようにして、カーリマンがこちらに振り返った。少しだけ驚いたようなその目にシャルロッテの後ろ姿が映し出され、次いでアイラの姿が捉えられる。


 アイラは中腰で青い顔をしたまま、あ、あ、と何も言えずに手をわたわた動かしていたが、それを一通り見てから、今度はカーリマンの方から小さく会釈をした。


 アイラは緊張と焦りとでわけがわからなくなっていたが、そのカーリマンからの会釈一つで、なにか心が和らいでいくのを感じた。カーリマンはまたすぐに元の姿勢へと戻っていったので、アイラはそれに返すこともできなかったが。


「たっだいまー!」


「も、もう! びっくりしたんだから――」


 そうして隣に戻ったシャルロッテの方にアイラが声をかけたとき、急に教室中がざわっと音を立てて、話し声が止んだ。視界に映るシャルロッテ以外の人間がみな、教室奥の講壇に注目しているらしいのがわかった。


 咄嗟にアイラも顔を前へ向ける。するとそこには、いつどこから現れたのか、一人の男が、名簿らしき冊子を手に立っているのだった。


 男は明るい土色のジャケットに身を包み、その顔には穏やかな笑みを浮かべてこちら側を眺めていた。赤っぽい髪には白髪が混じっているが、全体を後ろに撫でつけた、清潔感のある風貌である。


「そろそろ時間だね。諸君、席に着いて! さっそく授業を始めよう」


 そうしてよく通る声を上げたのは、アイラとシャルロッテの二人を学院での春へと無事に導いた苦労人――我らがレオンハルト・マルケルス副学長であった。

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