第59話 背を向けて、前だけ見て

 教室棟に近づくと、辺りにも新入生の姿が増え始めた。


 二人は入り口に掲げられた案内通り、三階の大教室を目指して棟内の階段にさしかかったところである。このあたりはさすがにシャルロッテは勝手知ったるもので、それとわかるとアイラを迷いなく階段へ導いた。


 ところがその階段が今度はアイラの足を止めた。なんとなれば、彼女が王都に来てから上った階段といえば、フリージアでの自室に至る古ぼけて急な木の階段と、図書館から時計塔への何ら飾り気のない作業用通路としての石の階段だけだったのである。


 それがどうであろう、この階段ときたら人が四人は横に並べようかというほど広く、足元には磨かれた石が整然と配置され、重厚な手すりまであるのだ。


 アイラは鼻息を荒くしながら、これぞ王都の階段だ! と、常人には理解不能な感慨に浸っていた。シャルロッテはそれにやれやれと肩をすくめながらも、「アイラはこういうのが好きだからな」とだけ思って、彼女の隣でその歩みを待っていた。


 しかし、待ちながらシャルロッテの手は、自然と胸の学年章へと触れていた。いよいよ、新しい環境での学院生活が始まるのだ。身近な人々になんやかんやと背中を押されたとはいえ、緊張が完全に拭い去れたわけではない。


 彼女らの脇を他の新入生たちが、一人また一人と通り過ぎていった。彼らの歩みはよどみなく、上へ上へと続いていく。シャルロッテは指でサンドラの刺繍をなぞりながら、上の方を眺めて何度か深呼吸を繰り返した。


 それを知ってか知らずか、アイラは十分な間を置いてからシャルロッテに振り返り、手を差し出してこう言った。


「ね、シャル。せーので行こっか」


「……なんだよアイラー緊張してんのかー?」


「えへへ、ちょっとね」


 シャルロッテはいつもの調子で軽く返しながらアイラの手を取った。ところが、アイラの指が存外冷たく乾いていたことで、かえって自分の手が熱と湿り気を持っていたことにも、それがアイラに伝わったことにも気が付いて、咄嗟に手を引っ込めようとした。


 だがそれも失敗に終わった。アイラが手を引く力の方が強かったのである。


「でもほら、シャルも緊張してるでしょ」


 アイラは手が冷たいわりに上気した頬で、シャルロッテにはにかんだ。シャルロッテは観念した顔で、「バレちまっちゃあしかたがねえ」と芝居を打ったが、すぐにアイラと同じようにはにかんで見せた。


「ドキドキだよ畜生。ありがと」


 シャルロッテはそう言うと、今度はアイラと同じくらいの力で手を握り返す。


「どういたしまして。じゃあいくよ、せーのっ――」


 かくしてアイラとシャルロッテはやっとのことで階段へと一歩を踏み出した。そのあとは、止まることなくどんどんと足を動かした。


 途中、二階部分へ進んでいく上級生らしき門徒の姿も見えた。アイラはその後ろ姿を目で追った流れでシャルロッテのことを気にかける。もちろんシャルロッテはそれに気づいたが、無言でドンドンと胸の赤いフリージアを叩いて示すのみで、二階の方は一顧だにしないのである。


 そうして二階部分に完全に背を向けたとき、シャルロッテの顔にはニッとあの勝ち気な笑みがよみがえってきた。アイラはそれを見て取ると、こちらも無言で頷いて、迷いなく足を上へ上へと動かしていく。


 やがて二人は三階に辿り着き、いくつかの教室を通り過ぎた先にある、大教室へとついに足を踏み入れた。

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