第57話 トゥルトゥルでフワフワの

「く……ふゎ……ア……」


 管理棟に現れたトゥルスタタンは、整った黒髪に眼鏡という装いこそ昨日と変わってはいない。


 しかしアイラの目には、目の前の人物のしょぼしょぼとした頼りない目つきと、何度もあくびを堪え切れていない様子から、彼女が憧れた事務員と同一人物であることが大いに疑われた。


「……失礼、朝に弱いもので」


 長いあくびのあとで、トゥルスタタン(?)は口元を隠しながら短く言い訳した。


 果たしてこれがあの格好良かった事務員のお姉さんなのだろうか、と真偽を判じかねたアイラが目をしばたかせている横で、シャルロッテは恩人に向き直って礼を述べる。


「昨日はありがとうございました、トゥルトゥルさん!」


 だがシャルロッテはまだ恩人の名を間違えていた。


「トゥルトゥルではありません。私はトゥル、ふゎ……はンえす」


「トゥルフワさん?」


「トゥル……くふぅ……もういいです」


 真面目に聞き返してくるシャルロッテに、トゥルスタタンは眠そうながらも何か言いたげだったが、すぐにまた別のあくびが込み上げてきたので、訂正は諦めたようだった。


 代わりに彼女は、アイラたちの向こう側へ声を投げる。


「事務長、おはようございます。まだ始業前ですが、今渡してもよろしいですか?」


 事務長から返事を受け取ると、トゥルスタタンは自分の荷物の中から一冊の分厚い本を取り出し、シャルロッテに手渡した。シャルロッテはその本とトゥルスタタンの顔を交互に眺めながら、はて、と意図を計りかねた様子だ。


「あなたの紛失した教材類は、今後学院が費用を負担し、責任を持って補填を行うことが決まりました」


 トゥルスタタンはあくびをこらえながら続ける。


「しかし急には用意できないものもあるため、取り急ぎこちらの〈鏡化書ミラーリ〉を貸与します。活用してくだ……ふわ……ぃ」


 アイラはこれまで、昨日目にした姿とのあまりの変わりように戸惑いが先走っていたが、何度も目の前であくびを見ているうちに、ジィン・メイデン司書補の言葉をはたと思い出し、ようやく納得するに至った。


『私の友人に、フクロウみたいなやつがいてね――』


 あの表現は、こうした朝の一面をも含めて表したものかもしれなかった。


 シャルロッテは礼を述べながら受け取った〈鏡化書〉を何気なく開いて、見返しをめくってみた。するとその隅に、小さく何か書き込まれているのがわかった。


「ん? ねえ、アイラ――」


 つられて、アイラもそれを覗き込む。小さな字であったが、二人がよく見ると、そこには几帳面な文字でこのように記されていた。


「……〈暁知らず〉のミネルバ……って、これ! トゥルスタタンさんのですか?」


 アイラはがばりと顔を上げて目の前のトゥルスタタンを改めて捉えた。ちょうど彼女はあくびをしたところだったが、目が開かないながらもこれに頷いて答えた。


「ふぁい……私の私物です。学院が今回のような事態に備えていなかったので、すぐに貸し出せるものがこれしかありませんでした。型は古いですが……はわ……まだ使えるはずです。ただ、もし古いものが苦手でしたら――」


 と、トゥルスタタンが言いながら手を伸ばしかけたところで、シャルロッテは〈鏡化書〉を畳んで胸に掻き抱いた。


「ううん、あたし、古いもの大好き!」


 えっへっへ、と笑うシャルロッテを見て、トゥルスタタンもそれ以上は言わなかった。


「では、新しいものが届き次第またお知らせしますので……」


「はあい! ゆっくりでいいですよ!」


「いえ、迅速に対応しますが……」


 トゥルスタタンはシャルロッテに簡単な返しをしながら、奇妙にも音だけはしっかりした足取りで、話は以上だと言わんばかりにカウンターの奥へと入っていく。事務長がその後ろ姿に「濃いお茶が入ってるよ」と声を投げると、彼女は眠そうにかくんと奇妙な礼をして給湯室らしき部屋に消えていった。


「……と、いうわけでだ。君の教材は順次補填していくから、今後たびたび事務部に立ち寄って受け取ってほしい。手間をかけるが、よろしく頼むよ。何か質問はあるかね?」


 シャルロッテから何もないことを確認すると、では、と事務長は奥の机へ戻っていった。入れ替わりに、カップを携えたトゥルスタタンが半分目をつぶりながらそろそろと自分の机に戻ってくる。


 そのおかしな様子に二人はくすりとしながら、大きな声で礼を述べた。トゥルスタタンは一見興味が無さそうに見えたが、カップを置くと、少しだけ目を開けて、こくんと少しだけ頷いて返すのだった。


 管理棟を出たアイラとシャルロッテは、意気揚々として教室棟を目指した。あたりには、先ほどより多くの門徒の姿が見える。


 アイラにとって初めての講義が、間もなく始まろうとしていた。

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