第56話 携えるべきもの

 翌朝、アイラとシャルロッテは少し早めに寮を出た。


 近所の顔馴染みと挨拶を交わしながら、大通りへ出る。前を歩く他の門徒の姿はまばらで、すれ違う人もない。静かに澄んだ朝の空気は、二人をいちだんと新しい気持ちにいざなうようだった。


 シャルロッテは昨日とは違い、道中も顔を上げてるんるんと歩を進めていた。もちろんその胸にはアイラと同じ赤色の、しかし彼女だけの特別な刺繍が躍っているのである。


 二人が早めに寮を出たのには理由がある。


 それは、昨日申請した魔紋照合の結果を聞きに行くためだった。管理棟がいつから開いているかはわからなかったが、「まあ早めに行けば講義には間に合うっしょ」というのがシャルロッテの見解だった。


 幸いなことに、二人は待ちぼうけを食うことなく管理棟の中へと入ることができた。ここまで目にする職員の数はまだ少なかったが、二人は事務室の奥に恰幅の良い男性の姿を見つける。昨日も見た、事務長と呼ばれていた男性である。


 事務長もまた、見覚えのある二人の姿を認めて、用件を察したらしい。すぐに身を起こすと、複雑な表情をしたままカウンターまで歩み出てくる。


「おはよう。ええと、〈放蕩〉の……シャルロッテさんだったね。今日は魔紋照合の結果を聞きに来たので、合っているかね?」


 シャルロッテが半分答えるか否かのうちに、事務長は翻って用意してあった書類を手にし、二人に見えるようにカウンターに置いた。


「ご指摘通り、魔紋は当該職員のものと一致した。君たちの疑義申し立ては正しいことが証明されたよ」


 ここまで言うと事務長は顔を上げて、複雑な表情のままに、謝罪の言葉を口にした。


「この度は私の監督不行き届きで、苦しい思いをさせてしまった。誠にもって申し訳ない」


 事務長はその薄くなった頭をシャルロッテへ向け下げたが、それが下がり切る前に、彼の目がシャルロッテの胸元を捉えた。


 縫い直された学年標章の異質さに、事務長の目が奪われる。


 アイラはまた何か言いがかりをつけられるのではと内心気が気ではなかったが、そのとき事務長の頭の中では、一瞬のうちに何かしらの計算がなされたのであろう。視線はやがてきちんとした礼の形へと戻り、シャルロッテは事務長の薄い頭頂部を目にすることとなる。


 対するシャルロッテは謙遜こそしないものの、この謝罪を素直に受け入れているようだった。相手の言葉に乗じて言い募るようなこともなく、彼女は小さく頷くのみで、話を終わらせようとしていた。


 事務長の方でも、それはそれ、と言わんばかりにすぐ頭が上げられた。レオンハルトと違って尾を引かない謝罪である。


「それで、まだ謝らなければならないことがあるんだが……」


 事務長はそう言うと再び翻って、何かを取りに自分の机へと戻っていった。


 その間にシャルロッテはアイラを振り返る。


「まだあるんだって。なんだろう?」


「それってもしかして……」


 アイラは思い当たるところがあり、視線をシャルロッテの肩掛けへと移した。


 彼女には登校する道すがら、気になっていたことがある。


 それは、シャルロッテの鞄の中身が、あまりにも無さ過ぎることであった。


 この日アイラが携えた肩掛け鞄には、小さめの辞典やノートにメモ帳、レオンハルトに用立ててもらった筆記具の他に、講義で必要となる教材類が詰められ、それなりの重量を持っている。


 一方で、シャルロッテの肩に掛かった鞄はほとんど中身が無いようで、彼女の登校する脚取りの軽さのままにひらひらと揺れていたのだ。彼女がお守りのように常に腰に提げている工具類の方が、よっぽど重そうに見えるくらいである。


 やがて何枚かの書類を携えて事務長がカウンターへと戻ってくる。そして彼が口にした言葉で、アイラの予感は確信へと変わった。


「その後の調べで、君が昨年度申請していた教材の紛失や再購入にかかる届け出が、すべてこの職員によって差し止められていたことが新たにわかった。重ね重ね、お詫び申し上げる」


 つまりシャルロッテは第一学寮で隠された教材を、まだ補填できていなかったのである。肩掛け鞄の軽さは、それゆえだった。


 アイラは新たな憤りと謎が解けた安心感とがないまぜになって複雑な表情を形作っていたが、当のシャルロッテは、まあそうだろうとこれにも頷くのみで、特に驚きもしていなかった。


「ま、身軽なのも悪くなかったけどね」


 そうして肩をすくめながら振り返るシャルロッテの顔には少しの憂いもわだかまりも無いようだったので、アイラは少し気を収めることとした。


 しかしそこへ、二人の後ろから別の声が割って入った。


「そうはいきません……」


 二人は振り向いて、その人物の姿を目に納める。

 声の主は規則的な靴音を伴って、彼女たちに近づいた。


「少なくとも、〈鏡化書ミラーリ〉ぐらいは……くぁ……携帯すべきですよ……」


 そう言ってあくび混じりにアイラたちの前に現れたのは、眼鏡の奥にまだ眠そうな目を携えた、昨日とは少し印象の違う黒髪の事務員――ミネルバ・トゥルスタタンだった。

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