第52話 寮母のお仕事

 この日二人に用意されていたのは、ささやかながら新学期の祝いを兼ねた食事だった。アイラの入寮初日に饗されたほどではないが、それでも彩り豊かな三品ほどがテーブルに並び、彼女たちの舌を悦ばせていた。


 アイラが王都で初めて口に運び、美味しいといったあの豆のスープも、そのうちの一つとして食卓をにぎわせている。


 それらに舌鼓を打ちながら、シャルロッテは器用にもこの日あったことをまくしたてるように語り、アイラが折に触れてこれに補足した。


 ただしシャルロッテは、かつて自分が第一学寮で受けていた仕打ちについては、詳しくは伏せておいた。サンドラに余計な心配をかけまいとしたのであろう。


「するってえとなにかい、最後はそのツルトンタンってお人があんたたちを助けてくれたのかい?」


「むぐむぐ……トゥルスタタンさんね」


 サンドラの言葉を訂正しながら、アイラは食事を口に運んだ。


 アイラは何度もミネルバ・トゥルスタタンの姿を思い浮かべるうち、彼女の出で立ちや言動が、頭の中でだんだんと美化されているのに気が付き始めた。事実、齢十五のアイラにとってその姿は格好良すぎたのである。


 友人と明かしたメイデンが「女神」と呼ぶのも、あながち誇張とは言えまい。それだけの神々しさが、彼女の振る舞いには立ち現れていた。


「いやあ、格好良かったよあの姉さんは。ああやってビシっとやれる大人になりたいよね」


 シャルロッテもまたその瞬間を思い起こすようにうんうんと頷きながら、パンをちぎって口に運んだ。


 この「大人になりたい」という言葉がシャルロッテの口から出たことに、サンドラは密かに目と口を緩める。


「そうかい。まあよかったじゃないか。なにはともあれ、二人とも、明日からは授業だろ? しっかり食べて、これからに備えるんだね」


「はい! あ、でも、そうだ、シャルの制服……」


 アイラは刺繍のことを思い出した。確かにトゥルスタタンの助けでヴァレー事務員の糾弾には成功したものの、当の赤い刺繍は、まだぐちゃぐちゃの汚い状態のままである。


 そのままの制服で明日以降も登校させることについて、アイラはシャルロッテを気にかけて視線を投げた。


「あー……まあいいよいいよ! あとは自分でやるよ!」


 シャルロッテはそう言って笑いながら手を振ったが――


「どれ、シャル坊、ちょいとここに持っておいで」


「えッ」


 サンドラの提案に、シャルロッテは目を丸くした。


 帰寮したときは気分が高揚していてなんとも思わなかったが、改めて見られるとなると、少し緊張した。恥ずかしいような気がして、視線をテーブルに彷徨わせる。


「い、いいよおばちゃん。自分でやるよお」


「いいから、持っておいで」


 しかし重ねて言われると、従わざるを得なかった。シャルロッテはパンを皿に置いて中座すると、とんとんと、階段をゆっくり上がっていく。


 その間に、サンドラはアイラに尋ねた。


「その学年章の刺繍ってのは、何か特別な縫い方があるのかい?」


「それが、私も規則を調べたんですけど、あんまり詳しいことは書いてなくって……」


 アイラも食器を置くと、まだズボンのポケットに入れたままになっていたメモを取り出して、それを読み上げた。


「ええと、『原級留置りゅうねんの場合』は……『元の学年の色を四分の一程度残し、留置された学年色を上から刺繍すること。』……って書いてありました」


 サンドラは「ふうん」というと、取り分けていた肉にガツンとフォークを突き立てた。


「じゃあ元の色が見えてりゃ、別にどう縫ったっていいわけだ。その滅茶苦茶な縫い方でも規則の範囲内ってのは、頭にくる話だね」


 そのまま口へ運ぶと、少し眉根を寄せながらもりもりと力強く咀嚼する。


 アイラは、この件について淡々と聞いていたサンドラが初めて感情的な意見を述べたので、少し身を乗り出して「そうですよね?」と確認した。


「サンドラさんも一緒に怒ってくれますか?」


 そのアイラの様子を見て、サンドラは口の中身を飲み込んでからタハハと笑った。


「そいつはアイラ、あんたの仕事だよ。そりゃあたしだって、あんたたちが泣かされちゃあ業腹だけどね、みんなが一緒になって顔膨らませたって、いい方向にはいかないのさ。だいたい、あたしが怒ったらどうなるかわかってんのかい?」


「ど、どうなるんですか?」


 アイラが興味本位で聞いただけなのだが、彼女はすぐに聞いたことを後悔した。


「学院なんか、燃やしちまうよ」


 サンドラの低い声は、とても冗談とは思えない響きを持っていたからだ。


 そうこうするうちに、いつになく控えめなシャルロッテの足音が階段を下ってきた。そうして抱えていた制服を、おずおずとサンドラに差し出す。


「ん、これ……」


「どれどれ……おお、こりゃひどい! なんてえ仕事だろうね」


 アハハ、と決まり悪そうに笑うシャルロッテを前に、サンドラは先ほどと同じような表情で刺繍を眺めた。そして、目の前に立ったままのシャルロッテを見上げると、静かにこう言った。


「悔しかったねえ、シャルロッテ」


 その一言が、シャルロッテの顔からぎこちない笑みを消した。


「あたしゃあんたが言わないから、聞くまい聞くまいと思ってたけど、ここに来る前も、そりゃあ悔しいことがあったんだろうね」


 サンドラの言葉に、シャルロッテはうつむいたまま静かに頷いた。その拍子に、きらりと輝くひとしずくが、床へと落ちて行った。


「でもねえシャルロッテ、いいかい、こんなくだらないことで、あんたの心は、何一つだってけがされやしないんだ。これっぽっちもだよ。あんたの心がきれいなのは、あたしが知ってるからね」


 シャルロッテは鼻をすすりながら、また一つ頷いた。


「それに今はアイラだっているんだ。もう怖いものなんてないのさ、そうだろ? ビビってんじゃないよ」


 サンドラは冗談めかしてぽんとシャルロッテの手を叩いた。鼻声ながら、シャルロッテに少し笑顔が戻る。


 それを見て静かに立ち上がると、サンドラはテーブルの横に立っていたシャルロッテを前から抱き締めた。


「大丈夫、あんたはちゃんとやっていける」


 シャルロッテもまたサンドラの背に手を回して、その胸に顔をうずめ、小さく頷いた。サンドラは制服を持ったまま、優しい顔でシャルロッテの背をとんとんと叩く。


「今度また誰かがあんたに嫌がらせしてみな、あたしゃそいつのケツの穴に突っ込んで奥歯ガタガタ言わせてやるからね」


 そうしてその優しい表情のままで恐ろしいことを言うので、横で聞いていたアイラは内心戦慄した。


 お、怒っている……!


 以後安易にサンドラに助けを求めないようにしようと誓った瞬間であった。


 シャルロッテは笑いながら「それはやりすぎ」といって顔を上げた。涙に濡れながらも、彼女の晴れやかな心が少しずつ戻ってきたようである。


 サンドラはそれを確認すると、よし、と言って手をシャルロッテの肩にやった。


「こいつはあたしが直しておくから、今日は二人ともさっさと寝ること、いいね。さあ、料理が冷めちまうよ」


「へへ……あいよォ!」


 シャルロッテは鼻をすすり上げてから、いつも通りの元気な返事をすると、アイラの隣へ戻った。


「食べよ、アイラ!」


「……うん!」


 二人が止まっていた手を動かすのに、時間はかからなかった。サンドラの料理は滋味深く、そこで交わされる三人での会話と合わさって、ゆっくりと二人のお腹を温めていった。

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