第49話 公正なるトゥルスタタン

「あらあ窓口閉まっちゃいましたねえ。じゃ、お疲れさまですぅ!」


 ヴァレー事務員はわざとらしくそう言いながら自分の荷物を引っ掴むと、足早に出口へ駆けた。


 いたのだここに、悪い大人が。


 アイラの足はその場に縫い付けられたように動かなかった。どうすることもできない自分に歯噛みしながら、彼女の動きを目で追うばかりである。


 別に、自分が犯人を吊るし上げたかったわけではない。


 ただ、シャルロッテのことを考えると、やはりヴァレーには謝罪をしてほしかった。


 軽率な行為を反省してほしかったし、シャルロッテは何も悪くないことを認めてほしかった。何より、正しい手続きでそれらが得られることが、シャルロッテの他人への不信や心の傷を、少しでも和らげてくれると彼女は信じていたのだ。


 シャルロッテは声ならぬ声を漏らしながら一歩、二歩と姿勢を変えてヴァレーの動きに正対しようとしたが、その前に立ち塞がるほどの気力はもう無いようだった。ぎゅっと拳を握り締めているのが、アイラには見えた。


 メイデンさん、やっぱり――とアイラが諦めかけた、そのとき。


 カウンターの中から、鋭い声が飛んだ。



「事務長ッ! 〈特別執行〉申請ッ!!」



 アイラとシャルロッテがぎょっとして振り返ったその刹那、カウンターの中から一つの黒い影が躍り出て、二人の間のごく狭い空間を疾風はやてのごとく通り抜けた。


「きょ、許可ぁ!」


 遅れて部屋の奥から聞こえたその声は、先ほど事務長と言われた温和そうな男性のものである。


 咄嗟のことに呆然とするアイラの頭の中に、メイデンの会話が再びよみがえる。



『――ただね、かっこいい大人ってのも、ちゃあんといるんだ。君たちの前にも、女神が現れることを祈ってるよ』


『女神ですか?』


『ああ、公正の女神さ。事務室にいるんだ』



 ハッとして、アイラは振り返って黒い影を追った。さっき横を通り抜けたはずの黒い影は、いつの間にかフロアを駆け抜けて、すでに出入口の近くまで動いていた。


 それを前に、やむなく足を止めたヴァレー事務員の歯軋りが響く。


 黒い疾風は、低い姿勢からゆっくりと立ち上がりながら、その冷厳なる声でこう述べた。


「――稟議完了。〈特別執行〉、開始します」


 その正体は、紛うことなき黒髪と眼鏡の、ミネルバ・トゥルスタタン主幹事務員であった。


「せんぱぁい、どいてくださいよお……事前に申請のない時間外勤務はじゃないですかあ」


 ヴァレー事務員はじりじりと出入口の方へ体を向けながら、という言葉を強調して探りをかけた。トゥルスタタンはその言葉に対し、微動だにしないまま答える。


「それはそうですね」


 ヴァレー事務員はにたりと笑みを浮かべると、さらに言葉を重ねた。


「事務部の主幹ともあろう方が、自ら規則をないがしろにするはず、ないですよねえ?」


「それもそうです」


 トゥルスタタンはヴァレーから目は動かさずに、しかし素直に答えているようだった。ヴァレーはその様子を見て大方安心したらしい。そろりと足を踏み出して何事も起こらないことを確認すると、そのまま歩いてトゥルスタタンの横を通り過ぎようとした。


「ですよねえ! ふふふ!」


 嘘だ、これじゃ話が違う――とアイラは思った。が、それも一瞬のことだった。


「じゃ、お疲れ様で――ンがッ!!」


 軽い言葉を残して外へ行き過ぎようとしたヴァレー事務員の歩みが、突如何かに妨げられたのだ。


 その動きを目に捉えられたものが、その場にどれだけいたものか。


 後に残ったのは、ヴァレー事務員の言葉に素直に答えて微動だにしなかったミネルバ・トゥルスタタンが、隣を往き過ぎようとした彼女の額に円柱の魔法具を突き立てている姿だった。


「一つ教えてあげましょう、ヴァレーさん。事務部にはあなたのような下級事務員には積極的に知らされていないがいくつかあります」


 ヴァレー事務員は体だけが前に出て、首から上が置いてきぼりを食らったような姿勢で固まっていた。額の魔法具はトゥルスタタンがペンを持つように三本の指で保持しているに過ぎなかったが、彼女はその指の力だけでヴァレー事務員の動きを押しとどめているようである。


「――が、今は勤務時間外なので詳細は省きます」


「ぐッ……! なに……これ……!」


 トゥルスタタンはぷるぷると体を震わせて抜き差しならなくなっているヴァレー事務員を静かに見つめながら、左の手で自分の服のポケットから折りたたまれた紙を取り出した。


「要するにあなたは今、所属長の許可を得た私の疑義照会に従うべき立場にあります」


「はあ!? そんなの……!」

 

 そのまま手を空中に閃かせると、紙はパンと音を立て、一気に折り目が広げられる。


 それが先ほどまでカウンターにあったはずの、アイラたちが手渡した申請書だと気が付いて、アイラとシャルロッテは目を見合わせた。


「ですが、あなたにその意思が認められない場合――」


 言いながら、トゥルスタタンの腕が動いた。


 彼女はヴァレーを制していた位置から腕を前に押し出し、さらにヴァレー事務員をのけぞらせた。前に出ていた体が自然と後ずさる。


 だがこれと同時にトゥルスタタンは自分も一歩前へ出た。すると、ヴァレーの額にも重さが加わったのに相違ない。後ずさったまま彼女の脚は膝をつき、自分より背が低かったはずのトゥルスタタンの顔を真上に拝する姿勢を取っていた。


 その額には、円柱の魔法具が垂直に突き立てられたままである。


「私には必要な措置を執行する権限が与えられています」


「……や、やだ……許してよ、せんぱい……!」


 そこまで来ると、トゥルスタタンは左手に持った紙面をちらりと確認し、魔法具の上へと移動させた。白い紙がヴァレー事務員の顔の上半分を覆ったが、トゥルスタタンは冷然と言葉を続けるだけだった。


「いえ、規則なので」


 言葉の直後、魔法具が赤く発光したかと思うと、空気が割れるような激しい音と共に、ヴァレー事務員は背中から崩れるように倒れた。


 その額に残った円形の痕からは、湯気のようなものが立ち上り――トゥルスタタンが手にしていた申請書には、すでにもう一つの魔紋が転写されていた。


 事態を見守っていた二人の下へトゥルスタタンがカツカツと歩み寄り、申請書を見せる。


「転写が完了しました。このあとは、別の魔法具を使って照合に移りますが――」


 トゥルスタタンは一度言葉を切ると、二人の間に割って入り、カウンターの上に手を伸ばした。


 そうしてコトン、とあるものを置くと、公正の女神――ミネルバ・トゥルスタタン主幹事務員は、実に淡々と二人に述べるのだった。


「結果はまた、明日聞きに来てください」


 表を向けられた「窓口終了」の卓上札を前に、アイラとシャルロッテは唖然として目をしばたかせるほかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る