第48話 魔紋照合執行

「さて、ヴァレーさん」


 眼鏡の事務員はアイラの申請書を丁寧にカウンターに置くと、ヴァレー事務員に向き直って声をかけた。


 ヴァレーは強張った顔を何とか元に戻すと、付け入る隙を探すように媚びた声を作った。


「な、なんですかあセンパ――」


「先輩ではありません。私は今、事務魔法執行者として、被照合人であるあなたに話をしています。手続きを開始してよろしいですね?」


「ギ……はい、失礼しました……」


 言葉をさえぎられたヴァレーは、ぎりりと歯をきしらせながらも大人しく返事をした。


 眼鏡の事務員はアイラたちに向き直ると、一度アイラの顔を見てから、すぐに隣のシャルロッテを捉える。


「では次、〈放蕩ほうとう〉シャルロッテさん。こちらへ」


 シャルロッテはアイラの横から進み出て、その胸の学年章がよく見えるように胸を張った。眼鏡の事務員はそれを一瞥いちべつして頷くと、申請書の内容に誤りがないかを口頭で確認した。


「――以上で、お間違いないですね?」


「はい……!」


 シャルロッテの万感こもった返事を受け取ると、事務員は首から下げていた名札を手にとってシャルロッテに示した。


「申し遅れました。これより魔紋照合を執行します、本学院主幹事務員のミネルバ・トゥルスタタンと申します。では、手を失礼」


 トゥルスタタンと名乗った事務員はシャルロッテの反応を待たずに名札を下げると、その手を彼女の学年章にかざした。そして反対の手でカウンターの後ろの棚から何かを取り出すと、申請書下部の大きな空欄の上へと載せた。


 彼女が置いたのは、大理石を切り出したような、小さくつややかな円柱であった。


「今からあなたの制服に残っている魔紋を、この魔法具を通して紙面に転写します。視認してください」


 トゥルスタタンは呪文らしい何事かを呟きながら、シャルロッテにかざしたのとは逆の手の人差し指を円柱の魔法具に重ねた。


 実際アイラの目には何も見えなかったが、彼女は何かの流れがシャルロッテの胸からトゥルスタタンの体を通って、その人差し指に流し込まれているような錯覚を覚えた。シャルロッテも緊張しながら、アイラと同じく何かの流れを追うように目を動かす。


 トゥルスタタンが魔法具から指を離し、円柱をつまみ上げると、紙面にはきれいな円形の黒い染みが残っていた。


 うっすらと光を放つそれは、アイラたちの目の前で、意思を持った生き物のように動き出したのである。


 染みの動きは緩やかだが、円形の全体で同時に起こった。円の外周から小さな線で枝分かれしたり、逆に中に押し込まれたりしながら、少しずつ複雑な形をとる。染みは全体的には円形を保ったまま、迷路のような細い線となってその外周を広げていく。


 やがてその動きが止まるとともに光は失われると、あとには朱色の精緻せいちな紋様が残った。


「はい、結構です」


 トゥルスタタンはその様子を自分も最後まで視認すると、やっとシャルロッテの胸のあたりから手をどけた。アイラとシャルロッテはどきどきしつつも、互いに目を交わして小さく頷いた。


 これで、自分たちがやるべきことはできたはずだった。二人がメイデンに教わりながら計画したのはここまでである。その後のことは、大人に任せるしかない――メイデンにもそう言われたところである。


 二人は事の次第を静かに見守った。


 ただ、アイラはメイデンに言われたことがまだ頭に引っ掛かっていた。



『――でもまあ、悪い大人はどこにだっているからね、どうにもならないことは、やっぱりあるよ』



 その言葉を思い出すと、アイラはヴァレー事務員に一抹の不安を残したまま、トゥルスタタンの動きを注視した。


「では次、ヴァレーさん。手を」


 彼女は円形の魔法具を先ほどとは別の枠に配置すると、シャルロッテにしたようにヴァレー事務員へも手のひらを差し出した。今度は上へ向けて、自分の手を重ねるように仕向けたのである。


「どうしましたか? 次はあなたの魔紋を転写する番です」


 トゥルスタタンは重ねて声をかけた。見れば、ヴァレー事務員はこの期に及んで自分の手を出しあぐねていたのである。彼女は手を出したり引っ込めたりしながら、何かを気にするようにそわそわと視線を中空に漂わせた。


 一体何をもたもたしているのか、とアイラが思った瞬間――ヴァレー事務員は不気味に口角を吊り上げると、素早く身をひるがえしてカウンターの奥へと隠れてしまった。


「えっ、ちょっと!」


 思わずシャルロッテは声が出る。


 その場にいる誰もが何事かと目を疑ったが、数瞬遅れて、鐘の音が鳴った。


 定時になったのだ。


 間もなくカウンターとは違う場所から、ヴァレー事務員が鞄を手に飛び出して来た。

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