第44話 拝読しましたので

 午後四時三十分。


 アイラとシャルロッテが窓口終了間際の管理棟を訪れると、中の職員はすでに帰り支度を始めたところだった。


 二人が入口から姿を現すや、小さく舌打ちをした事務員がある。それは明るい色の髪を肩の下まで伸ばし、濃いめの化粧に面を彩られた、吊り目の若い女性――実にシャルロッテに酷い応対をしたその人である。


 アイラを先頭に、シャルロッテがその後ろにぴったりつくようにして、二人はカウンターへ向かう。吊り目の事務員はシャルロッテの姿を認めると、その意図を察したらしい。急ににこやかな顔をして「私が相手しておきますね」と言って他の職員をカウンターから遠ざけ、自分は我先にとカウンターに立って待ち構えた。


 アイラ達がたどり着いて口を開く前に、吊り目の事務員はやや身を乗り出して険のある雰囲気を出した。


「終業間際にようこそ。新入生が何のご用?」


 わざわざ前へ出て言うのは、後ろに聞こえないようにするためだろう。その陰気な迫力に、アイラは言葉を詰まらせた。事務員はその後ろへと視線を動かし、粘着質な言葉を重ねる。


「あらあ、失礼。そちらは留年生だったわねえ、ごめんなさいねえ」


 シャルロッテは目を伏せて、アイラの後ろに隠れたままである。胸の学年章を肩掛け鞄のベルトで隠し、その色を見せないようにしているらしい。


「でもねえ、学院の中では学年章を常に見えるようにしておかないと。早く鞄を降ろしてくださいねえ、ですから」


 女性事務員は申し訳なさそうな口ぶりをしながら、それには全くそぐわない舐め回すような目でシャルロッテを見る。


「あ、あの!」


 アイラがついに声を上げ、事務員の注意を引いた。


「この子の復学手続きを担当されたのは、あなたですか?」


「ああッ? ……ええ、そうですよお」


 事務員は苛立ちながらも、自分の背後へそれを漏らさないように取り繕いながらこれに答える。


「じゃあ、学年章をぐちゃぐちゃに刺繍したのも、あなたなんですね?」


 アイラは真剣な眼差しで目の前の女性に尋ねた。図書館での時間は、アイラの激情を抑えるのに十分だったらしい。友人の仇を目の前に、気を荒げているような様子はない。


 しかしその瞳には、このままでは済まさないという頑固な意志が現れているのである。


 事務員は小さく鼻で笑うと、表情と口調を大げさに変えて、今度はわざと後ろへ聞こえるような声を出した。


「ええっ!? 学年章をぐちゃぐちゃに刺繍ですって? 一体だれがそんな酷いことを!?」


 アイラは思ってもみない反応に、顔をこわばらせた。そして数瞬の後に、頭がカッと熱くなった。抑えていたはずの感情が、首をもたげる。


「誰って……あなたがやったんですよね?」


 アイラは先ほどより語気を強めて言ったが、吊り目の事務員はなんら意に介さない様子で反論した。


「まさかあ! 一介の事務員が、何の恨みがあってそんなことをぉ?」


 アイラはまた唖然とした。あくまでも白を切るつもりらしい。 事務員の大げさな反応に、背後にいた職員たちも何事かと顔を覗かせ始めた。


「あなたたちこそ、わざと自分で汚く縫い直して、私に罪を着せようとしているんじゃないの? 言いがかりですよお! ちょっとぉー、この子たち変なんですけどー!」


 こうした流れの中で、やがてその場の職員全員がアイラとシャルロッテに注目することとなった。確かに彼らから見れば、単位取得の危うい素行不良の留年生が、新入生を焚きつけて事務員に難癖をつけているように見えるだろう。


 衆目に晒されながら、アイラは息を呑んだ。大人たちの無遠慮な目が彼女たちを捉える。何を言われなくとも、その視線自体が質量を持って、ぐさぐさと体を貫いてくるようだ。


「ぐっ……!」


 しかし、ここでひるんではいけない、とアイラは自分に言い聞かせ、なんとかそれらの視線を受け止めた。


 そうしてここへ来る前、図書館を出る際にジィン・メイデン司書補から最後に掛けられた言葉を思い出す。


『アイラにシャルロッテ、君たちはこの短い間に実によく調べ、理解した。 そいつを必ず、披露してやるんだよ――』


 うん……大丈夫だ。


 アイラの瞳が、眼鏡の奥から吊り目の事務員を射抜いた。


「み、認めてください。これはあなたがやったことです。さん」


 アイラの言葉に目の前の女性は一瞬固まると、咄嗟に自分の胸を見た。もちろんそこには名札は下げられていない。


 だがアイラは、彼女の本名を正確に述べたのである。


 一体誰から聞いて――と、奥の職員たちを顧みようとしたとき、さらにアイラの放った言葉が、キャサリン・ヴァレー事務吏員を猛然と振り返らせた。


「それとも――二つ名でお呼びしましょうか。〈歯軋はぎしり〉キャサリンさん」


 キャサリンの表情は驚愕を超え、その目元に恐れの影を作った。特に親しくない限り、同年代でない者に己の二つ名を知られるようなことは、あまり考えられない。なぜそれを、目の前の新入生が口にしているのか。


 だが対するアイラは表情を変えず、まっすぐに相手の目を見つめ、こう述べるのだった。


「あなたの卒業論文、先ほど拝読しました」


 続いて、静まった部屋に亀裂が入るような、ぎぎぎという音が、キャサリン・ヴァレーの口から漏れ聞こえた。

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