第22話 フリージアの夜の囁き

 語り尽くせぬ夜が過ぎた。


 誰しも、慣れない土地での夜は、善かれ悪しかれ気をたかぶらせるものだ。


 アイラの場合、そこに温かな家と人と、飯があったことは幸いである。


 それらは彼女の夜を彩るには十分すぎるものだった。せっかくの料理が冷めないように各々が配慮しながらも、食卓は始終しじゅうにぎやかな声に包まれた。


 シャルロッテはアイラにあれこれ尋ねては、頷きながらも次々に料理を取り分けてアイラに勧めた。


 酒を飲んだサンドラは、自身ももりもりと食べながら、上機嫌に〈フリージア〉のことを語って聞かせた。少し声は大きかったが。


 レオンハルトはそれらに相槌を打ちながら、合間には料理の感想を欠かさず、アイラにもたびたび気遣いを見せた。


 ほの明るい火に照らされた、温かな夜だった。


 やがて卓上のすべての器が底を見せ、皆が満たされた顔を見合わせたのち、サンドラがレオンハルトを外へと見送った。


 シャルロッテと共に後片付けを任されたアイラは、器を運びながら、自分の頬がまだ熱を持っていることを感じていた。


 その間何度もシャルロッテに、美味しかったね、楽しかったな、と言っていることには、本人は気が付いていない。


 夜が更けて、お互いが自分の部屋に戻ってからも、アイラはまだ寝付けずにいた。


 本当に、お祭りみたいな夜だったな……。


 ランプの火は消してあるので、部屋には月明かりが小さな窓から覗くばかりである。そのわずかな明るさで、アイラは部屋の天井を見るともなく見ていた。眼鏡は、外すとすべてがぼやけてしまうので、眠くなる直前までつけているのが彼女の常だった。


 いい人たちだ。


 というのが、アイラの率直にして突き詰めた感想だった。


 シャルロッテは一つ年上のはずだが、何も偉ぶらず、素直な姿を見せてくれている気がする。少し強引なところもあるが、こちらにも気を遣わせまいという思いを感じられて、アイラにはそれが嬉しかった。


 寮母のサンドラは心から〈フリージア〉を愛して守っているようだった。そして、そこに住まう自分たちのことも。


 アイラは、自分の親類を父しか知らなかった。記憶の中の母は、もっと穏やかで優しかったから、少し違うけれど、もし自分におばさんがいたら、こんな感じかもしれないと思った。シャルロッテが「おばちゃん」と呼ぶのも、すぐに納得した。


 それで言えば、レオンハルトも自分のことを姪のようだと言ってくれていた。あれは嬉しかった。ほんの些細な会話の流れだったので、アイラはあまり反応こそしなかったが、自分をそのように思ってくれる人が増えることは、単純に彼女の胸を熱くした。

 

 アイラの身柄はこの〈フリージア〉へ預けられたので、レオンハルトとは以後、基本的に学内で会う関係になるはずだが――それでも去り際には、何かあればいつでも自分を頼るように、と重ねて言い含めてくれた。


 いい人たちだよ、お父さん。――お母さん。


 心の中で父母に語り掛けると、アイラは無性に母が恋しくなった。


 列車を降りた時から久しく保っていた緊張の糸が、やっと解けたのかもしれなかった。


 自然と涙が浮いて出て、アイラの視界を歪め、そのまなじりへと零れ落ちる。


 ゆっくり瞬きしながら、アイラはしばらくそのまま天井を見つめた。


 静かな夜だった。母に会いたかった。会いたかったが、大人になるってこういうことかもしれないとも思った。いい人たちだった。それでいいのだ、と思った。


 少し落ち着いたころ、アイラの耳には、ドアの向こうの何かの音がかすかに届くようになった。


 かちゃ、かちゃ、と硬いものを触れ合わせるような音が、不規則に、控えめに鳴っている。


 なんだろうかと少し考えて、アイラは思い至る。


 これは恐らく、廊下の向かいの、シャルロッテの部屋から漏れる音だろうと。


 そういえば出会った時もシャルロッテはなんのかんのと工具を身に付けていた。足りないものがあれば作るとも言っていたし、物いじりが好きなのかもしれない。


 さっきの食事では聞かれることに答えるばかりで、すっかりシャルロッテの話を聞きそこねた。


 明日は、私から聞いてみよう。


 どんなふうに聞こうか、シャルロッテは何と答えるだろうか――そんなことを取りとめもなく考えながら、アイラは自分がひとつあくびをしたことに気が付いて、外した眼鏡を窓枠に置く。


 シャルロッテの部屋からは、まだ物をいじる音が聞こえる。


 アイラは少しも嫌には思わなかった。


 おやすみ、シャル。おやすみ、お母さん。


 その音を聞きながら、アイラは少しの涙と笑みを携えて、王都での初めての夜を越したのだった。

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