第10話 お母さんといっしょ

「はい、いいですよ」


 職員の声で、アイラはやっと自分の頭から帽子が取り除かれていることに気が付いた。


「えっ、あれ!? 私確かいま……」


「ふふ、驚いたようだね」


 声をかけてきたレオンハルトは、何ら戸惑う様子もなく微笑んでいる。


「実はこの帽子をかぶっている間は、意識を帽子に持っていかれてしまうんだ。でもその間に、帽子が君のことをいろいろと喋らせてくれたというわけさ」


 レオンハルトが視線で促した先には、カウンターに置かれた紙に、職員が書き留めたらしい単語が二十個近く並んでいた。


 アイラから脱がせた帽子を後方へ安置した職員が、書類の前に戻りながら説明する。


「通常、最初の方に出た言葉が重要になります。後ろにいくほど経験的なもので、だんだん些末な事柄になっていくので、重要そうでないものや、呼び名の要素として不適切なものはこちらで削除します」


 そう言いながら職員は、書き留めたペンとは別の絵筆のようなものを持って、単語とにらみ合っているところだった。書き留められていたのは、次のような言葉だ。


 『 破壊  目  装着


   母  喪失  本 


   夢想  父  守護  拳―― 』


「これと、これは……削除しますが、よろしいですね?」


 職員の声に、こくり、とアイラが頷くと、職員は持っていた筆で二つの単語をなぞった。


 すると、黒かった文字が少し赤みを帯びたかと思うと、みるみる内に血のように赤くなった。そしてそのまま様子が変わらないことを数秒確認すると、職員は頷いて続けた。


「……はい、削除が認められました。次は――」


 普段のアイラならここで、目の前の現象に感嘆の声を漏らして質問を浴びせるところである。しかし、このときアイラの心中は穏やかではなかった。


 その後も一つ二つと確認されては頷き、その分だけ単語が赤くなっていったが、アイラはほとんど聞いていない風で、その視線はある言葉に釘付けになっていたのである。


 つまり、職員が最初に削除の確認をした、二つの言葉――


『 母  喪失 』


 ――これは紛れもなく、アイラの経験を表した言葉だった。


 生得的な事柄ではないながら、なお早々に口から出たということは――とりもなおさず、これがアイラにとってはほとんど根源的な事象であるということである。


 アイラが最後に母に会ったのは、もう十年以上前のことだ。


 確か自分が四歳のときで、母はいつもとても優しくて、「愛してる」と何度も言いながら抱き締めてくれたことを覚えている。


 しかし、そこから記憶はぷつりと途切れ、次の記憶にはもう母の姿はなかった。


「お母さんは?」


 と父に聞くと、


「母さんは遠い所へ行ったんだ」


 と返ってくる。


 いつ聞いてもそうとしか答えない父に、アイラはやがてその質問をしなくなり、二人での生活が当たり前になった。


 十歳を超えたぐらいになって、アイラはようやく事態を飲み込めてきた。


 お母さんは死んだのだ。


 父の口ぶりは変わらなかったから、はっきりそう聞いたわけではないけれど。


 それからはあまり母のことは考えないようにしてきた。


 考えると、抱き締めてくれたことを思い出してしまうから。


 会いたいと、強く思ってしまうから。


 アイラがさっき〈名捨て〉に戸惑ったのも、ほとんどは母の痕跡が消えてしまうことを恐れたからだった。ひとまず「アイラ」の名が残ると言われて、心を落ち着けたつもりだったが、アイラの心は再びこの「母」という単語に揺れ動いた。


 でも、私にはお父さんがいるから――。


 そうやって自分に言い聞かせることを、これまでどれだけ重ねて来ただろうか。


「――ラ。アイラ。大丈夫かい?」


「はッ、はい! なんですか!?」


 アイラの目の前には、心配そうに顔を覗き込むレオンハルトと、所在無げに紙を手にしたままこちらを見ている職員とがあった。


「……よろしければ、残った単語を確認してください」


 職員はそういうと、持っていた紙をアイラに見えるように差し出した。


 見れば、先ほどの魔法の筆で赤くなったはずの単語は、いつのまにか消え去ってしまっていた。結果、紙面には大小ばらばらの空白ができあがっている。


 アイラは全体的に何が書いてあったのかはあまり覚えていなかったが、それでも自身を動揺させた二語だけは、否が応にもしっかりと網膜に焼き付いていた。


 アイラは紙面の空白にその残像を見ることができたが、一切はもはや過ぎたことである。アイラは視界にまとわりつく残像を振り払うように少しだけ目を瞑ると、思い切ったように、改めて紙面に目を落とした。


 そこに残った単語は、次の通りだった。

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