第6話 お父さんの友だちだからね

 毅然として相対するアイラに旧友の影を重ねながら、レオンハルトは続けた。


「二十年前のことは、申し訳ないが、まだ君には話せない。今の私にできるのは、現にある問題からできるだけ君を遠ざけ、守ることだけさ。そのためには、君の姓を完全に捨ててもらわないといけないんだが――いや、全く、こんな言い方で信じてもらおうなんて――」


 都合のいい話だが、と頭を下げかけたレオンハルトの言葉を、アイラの言葉が力強く遮った。


「信じます! そんな、信じますよ。だってレオさんは、お父さんの友達じゃないですか」


 少し呆気にとられたレオンハルトは聞き返した。


「ヴィルの……友達だから?」


「はい」


 アイラは強く頷いて、熱を帯びながら弁を述べる。


「レオさん、私嬉しかったんです。あの頑固者で、負けず嫌いで、人付き合いも苦手で全然笑わないくせに、口を開けば正論ばっかりのお父さんに、友達がいたことも、その友達が、お父さんをまだ覚えていてくれたことも、会ったこともなかった娘の私に優しくしてくれたことも、全部、ぜんぶ嬉しかったんです!」


 言いながら、アイラの目には少しずつ涙が浮かんできた。


「レオさん、知ってますか? お父さん、ずっと同じ服着てるんです。私が物心ついたときからずっと何着かだけで。帽子も靴も、破れたって繕えばいいって言って聞かないんです。でも私にはちゃんと買ってくれるんです。隣街の図書館にだって行かせてくれるんです。おかしいじゃないですか。そんなお父さんが、私が王都に、〈レブストル〉に行くことだけは反対して、譲らなかったんですよ。でも、それから一ヶ月も口を利かなかったのに、ある日立派な封筒が届いてから、試験を受けてもいいぞって言ったんです。それがきっと、レオさんからの手紙です」


 アイラの瞳から零れ落ちた涙は、足元の石畳をぽつぽつと濡らした。


「だから私は……レオさんに本当に感謝してて……あのお父さんがそこまで信頼して、私を預けた人のことを、信じられないわけがないじゃないですか! 信じますよ、私……」


 そこまで言って、濡れそぼった顔面を袖でぐいぐいと拭ったアイラだが、レオンハルトが声をかける前に「でも……」と付け加えた。


「でも、名前……名前を捨てるって聞いて、正直、怖いです」


 口に出すと、アイラは自分で自分の気持ちがやっとわかった気がした。


 そうか。怖かったんだ。私、名前を失くすのが。


「私はアイラ・フロイルです。お父さんと――お母さんがいたからアイラ・フロイルなんです。その名前を、これから誰にも言っちゃいけないなんて、なんか、寂しいっていうか、なんだろ、へへ、すみません泣いちゃって……」


 無理に明るくなろうとするアイラに、レオンハルトはようやく言葉をかけることができた。


「いや、それが普通だよ。君には重たい選択になる。……幸い、手続きの期限まではまだ余裕がある。少し日を空けて、心の整理をつけてからでも遅くは――」


 言いながら、足元を見つめているアイラに歩み寄ろうとしたレオンハルトだったが、その言葉と動きはまたもやアイラに遮られた。


 今の今まで泣きべそをかいていたアイラが、不意に体の向きを変えると、自分から大きく一歩を踏み出して、鬼が見下ろす石門を跨いだのである。


 思わぬ行動にまたもや呆気にとられるレオンハルトの眼前には、門の向こうで堂々と立つアイラの後ろ姿があった。


「『成果には』!」


 ズッ、と鼻をすすって、アイラは言葉を継いだ。


「『代償がつきもの』です!」


 そうして背を向けたまま、自分の袖で乱暴に涙を拭う。


「……どこでその言葉を?」


 レオンハルトがようやく平静を取り戻して尋ねると、アイラは振り返って、「父の口癖です」と少しはにかみながら答えた。


「本当に、いいんだね?」


「はい! 心の整理は……歩きながらつけます」


 念を押すレオンハルトに、アイラは目に新しい涙を溜めながらも毅然と答えた。しかし数瞬の後、「あ、でもあの、あの」とまた元のなよなよした風を取り戻してこんなことを言った。


「ま、守ってくださいね、レオさん? その、わかんないですけど、なんか危ないときとか……お、お願いしますね?」


 レオンハルトはその変わりように思わず笑みながら、「ああ、もちろん」と優しく答えて、自分も門の内側へと歩を進めた。


 アイラは少し安心すると、レオンハルトに目配せするようにして、二人はどちらからともなく歩き出した。石畳を鳴らす靴音は軽やかで、踵からの振動がアイラの熱くなった頭をじんじんと揺らすようだった。


 門の内側は新緑に覆われ、石畳を挟む木々からの木漏れ日が、二人の足元をきらきらと照らす。奥から吹き抜けてくる風は、アイラのまなじりの涙を乾かすには十分だった。

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