第5話 お父さんさあ……
「な、名前を? 捨てるって、どういう……」
急に不安になっておどおどし始めたアイラを見て、レオンハルトは「おや?」と眉を持ち上げた。
「どうって……ヴィルから聞いているだろう?」
父の名が出ると、アイラは目をぱちくりさせて、
「いいえ、父は何も……」
答えると、レオンハルトは呆れたように少しの間天を仰いで目をつぶり、小さく「ヴィルのやつ……」と悪態をついた。
気を取り直すような咳払いのあと、レオンハルトは再びアイラに語り掛ける。
「よし、わかった、私から説明するよ」
その諦めたような優しい口調を聞いて、アイラはやっと落ち着くことができた。
「まず、名前を捨てること――ここでは〈名捨て〉と言うんだけど、これはレブストルに入門する際に全員が行うことなんだ。この門を
「はあ、事務的な……って、もしかしてそれ、事前に知らされたことですか?」
「ご名答、君の家に送られた入門許可の書類にも書いてあったはずなんだが……ね」
レオンハルトの最後の「ね」の意味するところはアイラもよく知るところである。つまり父がいけないのだ。今度はアイラが天を仰ぐ番だった。そのあとは俯いて、大きな溜め息と共に「お父さんさあ……」とこれもまた悪態が口を突いて出た。
「ハアー……父が手紙の類を全然見せてくれなかったの思い出しました」
アイラの態度に、さすがのレオンハルトも苦笑せざるを得なかった。
「まあ、そういうわけだから君がびっくりしたのも無理はないよ。名前を捨てるというのは、大きなことだからね――さて」
そう言うとレオンハルトは周囲に少し目を配り、やや声の調子を押さえて、アイラの方へ腰を屈み気味に続けた。
「ここからが大事な話なんだ。よく聞いておくれ」
父の不手際に意気消沈していたアイラだったが、レオンハルトの雰囲気が変わったのを見て自分も少し耳を傾けるような姿勢を取った。
「いいかいアイラ、君の『アイラ』という名はもちろん残ることになるけど――『フロイル』の姓は、今後一切、この王都では口にしてはいけなくなる」
レオンハルトの低く抑えた声は、ゆっくりとアイラの耳を通り抜け、その頭の中に沈着した。
アイラは初めふんふんとわかったような顔で頷いていたが、ハッとして聞き返す。
「えっ、でもそれって――」
そして自分もレオンハルトと同じように周囲をきょろきょろしてから、やはり声を落として言った。
「――他のみんなとは、ちょっと違うってことですか?」
レオンハルトはアイラの鋭さに少し舌を巻いた。そして「そうだ」と静かに頷くと、このように付け加えた。
「君を『フロイル』と知る者は、王都ではこのレオンハルト唯一人にしてほしい。できるかい?」
アイラは姿勢を戻してレオンハルトに正対すると、その目を見つめて、ゆっくりと頷いた。
「できます。……たぶん」
同じように屈めていた腰を伸ばしてアイラの瞳を見つめ返したレオンハルトは、「それでいい」と言って目を細めた。
「この約束がある以上、私は君の父・ヴィルヘルムの友人として、君の王都での生活を保障しよう。私が関わる以上は、悪いようには絶対にしない。約束するよ」
アイラが頷くのを待ってから、レオンハルトは少し困ったような顔で付け加えた。
「……とはいえ、君にはまだ言えないこともあるんだ」
「それは――私を守るため、ですか?」
不意に尋ねたアイラに、レオンハルトは少し驚きながらも、「ああ」と頷く。
「父も……そう言ってました」
アイラは少し眉根を寄せて、思い出すように語り出した。
「私がはじめて王都へ行きたいって言ったとき、絶対に行くなって言われて、大喧嘩になったんです。そのときも、『お前を守るためだ』って父に言われたんです。今まで、単に都会は危ないって意味かと思ってましたけど……きっと、そうじゃなかったんですね」
アイラはそう寂しげにつぶやいた後、レオンハルトをまっすぐと見つめ、こう続けた。
「レオさんのおかげで、やっとわかりました。父が私に、王都でのことを何も言わなかったのも、初めて会うレオさんが、こんなに優しくしてくれるのも――父が王都にいた二十年前に何かがあって、それが今も続いているからなんですね?」
レオンハルトは正面からアイラの言葉を受けながら、彼女の青い瞳と金色の直毛に、かつての友を重ねて見た。「ああ」と短く発したその声は、アイラに対する返答でもあったが、一方では彼女の奥に幻視した友の姿への感嘆でもあった。
普段は控えめなアイラがいざというときに発揮するこの肝の据わった喋り方も、どうやら父親譲りらしい。
レオンハルトはアイラに気づかれないようにしながら、少しだけ頬を緩めた。
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