優しさの理由

電磁幽体

わたしの心はね、すごい穢れてる

 街を包み込む営みの喧騒は、夕暮れの交差点で、その瞬間、静謐と化した。

 二人の少女が迫り来る一台の車に気づく頃には、その距離はどうしようもないほど肉薄していた。


—————————————


 さすがは名の馳せた有名大学といったところか、講師も一流で、背伸びした茜は授業内容についていくだけで精一杯だった。

 周りの凡人と同じようにカリカリとノートを文字で埋めながら、ふと隣を見た。

 電動車椅子に一人の少女が座っていた。

 退屈そうに右手でペンを回しながら、視線を窓の外に向けていた。


「葵、またそうやってサボってる」

「見てはいないが聞いてはいる」


 葵は口だけを動かして、当たり前のように囁いた。

 幽かでいて力強いその声色が、とても様になっていた。

 ショートの黒髪が揺れゆくその横顔が、とても絵になっていた。

 青空を憂うように眺めるその姿は、まるで物語に出てくるヒロインのようだった。


 ……それに比べて、わたしは……


 茜はこみ上げる自己への嘲りをせき止めた。

 何を考えたって、何も変わらないんだ。

 ならば、何も考えるな。


「なあ、茜」

「なに?」

「いや、今日は空が綺麗だな、と思ってね。あとで、散歩を頼めるかい?」


—————————————


 茜と葵はほぼ同時に生まれた。

 なのにとても似つかない、まるで別人のような双子だった。

 茜は平凡な頭脳と地味な容姿と小さな肉体を授かり、葵は天才的な頭脳と可憐な容姿と豊満な肉体を授かった。

 茜はごく普通の有り触れた人間で、葵は極めて非凡な選ばれた人間だった。

 葵が光とするのなら、茜はいつも影だった。

 まるで蛾で、まるで蝶だと茜は思った。

 茜は葵を憎んだ。

 何かと葵に当たった。

 しかし葵はそんな茜を包み込むように、優しく接した。

 それがまた、茜の憎悪を増長させた。


—————————————


 緩やかな春の日差しを受けて、茜は車椅子を押していた。

 入学から二ヶ月が経った今でも、葵は人目を惹いていた。

 過ぎ去れば振り返らずにはいられないような美少女が、車椅子に乗って移動する。

 そのシチュエーションはとても神秘的で、だからそれを押している自分はその神聖の邪魔をしているな、と自嘲した。

 それと同時に、茜は優越感に浸っていた。

 今や葵は一人では何も出来ない。

 トイレすらも茜の力が必要だ。

 だから奉仕するとき、茜は葵の上にいると思っていた。

 ……卑しさ、後ろめたさ、自分を責める自分を無視して。


 ——葵は右手を除く首から下の肉体が麻痺していた。


 大学入学を控えた春休みの間に、轢き逃げに遭い、葵は自由を失った。

 訓練の末、右手だけは動かせるようになったらしい。

 それ以外は、絶望的だ。


「こんにちは、茜さん、葵さん。散歩ですか?」


 一人の青年が話しかけてきた。

 同じ学部で、何かとよく会う人だ。


 ——わたしの名前が先に呼ばれた!


 誠実そうなその顔を見るたびに、茜の心は弾む。


—————————————


「ああ、こんな青空の下、散歩しないほうがどうかしてるさ」

「もう、葵。口が汚いよ」

「そうですね、都会の真ん中にしては、周りに木々が沢山ありますからね。

おまけに地面は草の緑。誰も見ていなければ、寝転んで日向ぼっこしたくなります」

「君、なかなか分かってるじゃないか。近頃の若者はわびさびの心を知らないからね」

「そんなこと言ってる葵も立派な近頃の若者だよ」


 三人は静かに笑う。


「——えっと、あの、良ければご一緒に昼ごはん食べませんか?」


 茜は勇気を出した。


「……ごめんね、話しかけといてなんだけど、サークルの人に呼ばれて行く途中なんだ。

つい二人を見かけて話しかけたくなってね」

「あ、そうですか……それじゃあ、また」


 青年が見えなくなるのを確認したあと、茜は優しく語り掛ける。


「じゃあ、葵。昼ごはん、なに食べる?」

「そうだな、ジャンクフードならなんでもいい」

「茜ったら、なんでそう体に悪そうなものばかり好きなのかな」

「ジャンクフードは美味しいぞ、健康を無視した味付け、溢れんばかりの食品添加物、茜も一回りすればきっと好きになるぞ」

「わたしは、葵みたいに食べても太らない体質じゃないの。

ほんっと、葵は良いとこ取りだよね。何か一つ、わたしにもちょうだいよ」

「渡せるものなら、このでかいだけが取り得のおつむを差し上げたい。頭が良いってのは茜が思うほど羨ましくないぞ。なにしろ重い。

体が動かなくなって初めて気づいたよ、私の頭はいったいどれだけの重量なんだとね。いっそカラスが羨ましい」


 自慢にしか聞こえない口上も、葵が口ずさめば軽やかな会話のキャッチボールになってしまう。

 ……今までに無かったことだ。

 葵が話しかけても、茜は鋭く当たったり嫌味を言ったり無視したり。

 そんな剣呑な日々も、あの轢き逃げ事故を境に終わりを告げた。


—————————————


「茜、私のロッカーを見てみなよ。まったくもってうんざりだ」


 講義は全て終わり、二人で帰ろうとしたときだった。

 いつものことだ。

 茜は数十もの手紙の一つを取り出して小声で読み上げた。


「……僕は貴方のことが好きです。云々かんぬん省略中略後略以下略。

…………なんかこの人、誠実そうだよ」


 趣味の悪い会話を送る、女子特有の笑みを二人は浮かべる。


「お気持ちはありがたいが、いつもどおり捨てといてくれると助かる。それに、茜がいれば十分だよ」

「わーお、葵さんは男に飽きてレズに走りますかー」

「残念だが男とイチャイチャした記憶はあんまり無い、私はまだ新品同然だぞ?

……まあ、茜となら悪くないかもね」


 そんな冗談を言い合いながら、夕暮れの中二人は帰路に付く。

 その光景は、母の腹を共にした双子ではなく、ごく普通の仲の良い友達同士の、ようだった。


—————————————


 葵は母の手を借りて入浴中だった。

 茜は、ベッドにうずくまり泣いていた。

 左手に握り締めた一通の手紙。

 あのとき迷わず取り出した、茜が思いを寄せる青年の名前が記された、一通の手紙。

 葵と一緒のときは我慢した。

 いつもどおりの茜を演じた。

 自室に入るや否や栓をした感情が溢れ出した。

 ここ数ヶ月はそんな思いをしなかった。

 けれどもやっぱり、いつもどおりだ。

 幼少期からの決まりきった呪詛の言葉が心にこだまする。

 なんでなの?

 どうしてなの?

 いつも葵はわたしから奪うの?

 足りないの?

 ……そんなにいっぱい持ってるのに、

 何もないわたしから、

 まだ何かを奪おうとするの? 


—————————————


 茜は泣きじゃくりながら、そのまま眠り、そして夢を見た。

 ……茜が車に轢かれていたら?

 きっと、葵は尽くしただろう。

 茜は奉仕の代償に優越を求めたが、しかし葵は何も求めない。

 葵はそういう人間だった。

 何もかもが出来すぎた人間だった。

 一方、茜はあまりにも普通過ぎた。

 言葉がリフレインする。


 ……え、双子なの?

 ……血、繋がってるんだ。

 ……こっちがお姉ちゃん?


 ——わたしだよ!


 双子として常に比べられる、この普通は欠落に等しかった。

 ただでさえ欠落した茜が、右手以外の全身麻痺を背負い、これ異常何を欠落させろというのか?

 地獄のような夢だった。

 葵が茜を労わり、その優しさに触れるたび、茜はその業火に狂いそうだった。


—————————————


 チャイムが鳴る。

 茜は、葵の車椅子を押しながら、よく校内散歩で通る人気のないベンチに向かっていた。

 あの青年の、手紙での告白から二日後。

 指定された場所。

 ……もちろん、葵あてに。

 仕方なく葵は向かう。

 一人では何も出来ないので、茜も一緒に向かう。


「……ねえ、どうやって断るの?」

「簡単だ。ごめんなさい、この一言で済ませるつもりだよ」


 その会話を最後に無言のまま、やがて青年が横に立つベンチへと着いた。


—————————————


「わざわざごめんね、茜さん。

それに……葵さん」


 ……わたしの名前が先に呼ばれた、そういう礼儀だったんだ。


 本当に申し訳なさそうに、青年は茜に頭を下げる。


 ……嫌いにさせてよ。


 時刻は夕暮れ。

 赤色の太陽が水平線に落ちようとしていた。


「ああ、呼び出された理由も分かるし、言いたいことも分かる。

だから先に言うけど……ごめんなさい」


 車椅子に座りながら、言い切った。

 黄昏の光が葵の輪郭を浮き彫りにして、とても美しかった。


「うん、そう返されることは、ある程度分かっていた。恥ずかしいからといって、手紙を出したのがまずいけなかった。

……誠実さが足りなかった。最初から言葉で伝えるべきだった」


 青年はチラリと茜を見やる。

 とても申し訳なさそうだった。


 ……わたしの気持ちが透けていた。


「けれども、断られても、僕は、葵さんのことをどうしても諦めれないんだ」

「そう言われても、私としてはNOとしか言えないのだが」

「……葵さん。僕は、初めてオリエンテーションで葵さんに出会ったときから、一目惚れしてしまった。

容姿が美しかったから、車椅子の女の子が珍しかったから、というのは否定しない。

でも、葵さんと話していく内に、僕は葵さんの心に惚れたんだ。貴方みたいに綺麗な心を持った人を、僕は初めて見た」


 ……比べられたのかな?


「お願いです、僕のどこかに不満があれば、僕はいつでもそれを改善する」


 ここまで熱烈に葵に告白する人間など、今までに居なかった。

 大抵は葵の容姿に惹かれて、一蹴されるとそのまますごすごと逃げ出す。

 しかし青年は、純粋に葵のことを好いていた。

 葵の方もまんざらでもないような顔をしていた。

 別に悪くないな、と。


 ……許せなかった。


「すまないが、別に君に不満があるわけではない。むしろ、女性としては、君のような男性は一種の理想だろう。

でも……ごめんなさい。

特に不満があるわけでも無いが、それでも断らせてもらう。これでは、ダメかね?」

「……分かりました。すみません、葵さん。無理を言って悪かったです」


 青年は、潔く一礼した。

 そして再び顔を立ち上げると、


「それでも、僕は諦め切れません……!

 一ヵ月後、また告白します」


 そう言って、小走りで何処かに行ってしまった。

 気が付けば太陽はもう空に在らず。

 一気に暗くなっていた。


「なかなか、面白い人間だな」


 葵が夜空を見上げながらそう言った。

 茜は、もう、耐えれなかった。


 ……ねえ、

 ……なんで、

 ……どうして、

 ……葵ばっかり、


「——ずるいよ!」


—————————————


「え? 茜? どうしたんだい?」

「ほら、やっぱり……持ってる人は気付かない」


 すっかり暗くなった中、茜はベンチに座りながら、夜空を見上げながら言う。


「ねえ、知ってた? さっきの人。わたしが好きだった人なんだ。

その前に告白してきた人も、

高校の時も、

中学の時も、

小学生でも、

幼稚園でも、

……比べられて、選ばれなかった」

「それは……知らなかった。すまない」

「いいよ、葵は悪くないよ。ただ、わたしの出来が悪かっただけだからね。

——あはっ」


 乾いた笑い声を上げながら茜は続ける。


「お父さんもお母さんも、葵ばっかり気にかけてさ。わたしは演劇の木役かってくらい無視されてるし、ネグレクトってやつですか?」


 ここまで言ったら、止まれない。

 茜の瞳には涙が溜まっていた。

 ゆっくりとゆっくりと、少しずつ零れていく。


「わたし、小学校中学校高校のとき、ずっとなんて言われたか知ってる? 知らないよね? 金魚の糞だよ? 

大嫌いな葵の後ろにずっと居て、でも臆病なわたしにはそこしか居場所が無くて、ずっと葵の日陰で陰気に過ごした十二年間……

ほんとね、馬鹿みたい」


 そこで茜は勢いを付けてベンチから立ち上がった。


「そしたら葵は車に轢かれて全身麻痺。

……ねえ、どうしてわたしが葵と突然仲良くなって、優しくなったか知ってるよね?」


 葵は息を大きく吸う。


「…………それでも、私は嬉しかった」

「ほら、言うと思ったよ聖人君子の葵ちゃん。どんだけ人間出来てるの? おかしいよ、なんで? 


……気持ち悪いぐらい心が綺麗」


 茜は涙を浮かべながら笑って、両手を広げてくるりと一回転して、

 再び葵に向き合った。


「わたしの心はね、すごい穢れてる。さっきので、徹底的に分かったよ」


 茜は、車椅子に近づいて、葵の右手を左手で押さえる。


「池に落とそうと思った。

坂道で突き飛ばそうと思った。

山の奥に置いて帰ろうと思った。


……道路の真ん中で、手を離そうと思った。


ちょうどこんな感じ。分かる?」


 葵の首に右手を添える。


「わたしは葵を、いつでも殺せたし、いつでも殺せる。


——だから優しくできたんだよ」


 ゆっくりと、そっと、首を絞めてゆく。


「……茜の手で死ぬのも、私の罪滅ぼしかもね」


 葵は、優しく笑う。


「……罪滅ぼし?」

「そう、罪滅ぼし。ねえ、茜。何故私が今まで茜に、必要以上に、過剰に優しくしてきたか分かるかい? 


…………双胎間輸血症候群、だよ」


「知らない言葉で馬鹿にしないで!」


 声と共に力が篭もる。

 葵がえずき、口の端から涎を溢す。

 それを、自分で拭く事すら出来ない。


「——うぷっ、ゴホッ!」


 茜は代わりに拭こうとして、咄嗟に止める。

 手を緩めこそすれ、離さない。


 ……もう、戻れないから。


 なのに。


「……知らないのも、無理はないんだ。でも、あまりにも違い過ぎると思ったんだ」


 これだけしたのに、葵は笑みを崩さない。


「……それが顕著なのは出生直後の身長と体重。父に何度も何度も問い詰めて、やっと聞き出した」


 呼吸を整え尚も言葉を紡ぎ続ける。


「……母体から二人に注がれる栄養がアンバランスで、


——最初から、不公平だったんだ」


 意味が分からなくて、分かりたくなかった。


「だから、最後に罪滅ぼしがしたいんだ。

私が茜から奪った才能も、頭脳も、容姿も、全部、何もかもを、


——茜のその手で殺してくれないか?」


 言葉に反して、茜の両手が緩む。


「……やっぱり茜は優しいよ」

「ちがう、ちがう!」


 ……わたしと、おなじだったから。


 乾ききったはずの涙が、再び瞳から溢れ出した。


「こうして追い詰められるまで言えなかったんだ。人間性なんて欠片もない。聖人君子だなんて烏滸がましい。


……私も、茜と同じだよ」



 ……おなじだから、もう恨めない。



—————————————


 茜は地面に跪き、葵の膝で泣いていた。


 ……葵が助けてくれたのに。


 誤魔化して、

 無かったことにして。


 ……わたしがあのとき、車に轢かれるべきだった。


「ねえ、茜。

歪な関係だけど、今の私たちは、フェアな関係だと思う。

私が茜から奪ったいろんなものを、この体で、生涯かけて返済していくつもりだよ。

だから茜は、もっと私に優しくしてくれると嬉しい。

私はもっと、茜に優しくする。

それにちゃんと、告白は全部断るよ」

「ごめん……なさい……」

「これから、二人で始めよう」


 泣きじゃくる茜の頭を、唯一動かせる右手で撫でながら、葵は小さな声で、甘えるように囁いた。


「——おねえちゃん」


—————————————


 街を包み込む営みの喧騒は、夕暮れの交差点で、その瞬間、静謐と化した。

 二人の少女が迫り来る一台の車に気づく頃には、その距離はどうしようもないほど肉薄していた。


「——茜っ!」


 そう叫ぶと同時、隣に居た少女を、思いっきり突き飛ばした。

 そして、一人の少女は車に轢かれ、宙に飛ばされた。

 そのときの少女は、薄っすらと笑っていた。


 ——もしかしたら、これで、ほんの少しでも罪滅ぼしが出来たのかもしれない、と。




END

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