ひとりで過ごす夜に
遠くで救急車が走る音がしている。
時々、音につられて鳴く犬の声が響き、それはしだいに近づいてきた。
あの人は、今日も無事に仕事を終えただろうか。風邪などひいていないだろうか。もう十日も顔を見ていない夫のうしろ姿を思い浮かべた。
いつもいつも、家を出る時の背中しか思いうかばない。
精力的に現場を飛び歩き、情熱的に語り、挫折しても決して信念を曲げず、いつも外の世界を見つめ続けている人。
そういう人だと、それこそがあの人だとわかっているから、私はただ、帰ってこない夫の無事を願いつつ、静かに見ているしかなかった。
食卓に乗っていた二尾の焼き鮭は、いまは一皿だけが残り、冷たくなっていた。筑前煮の器も、まだほとんど手つかずのまま。
私の茶碗と汁椀は、すでに空っぽで、向かい側の茶碗と汁椀はは伏せたままだ。
一人分だけ注いだ煎茶は、ふんわり白い湯気を立てて私の手の中に囲われていた。
この両手で囲えるだけのぬくもり。それが、今の夫と私の繋がりなのかもしれないと、思う。
あの人の仕事と精神とを支えているのは、妻の私ではなく別の女性だ。
激務が続いて体調を壊した時も私は何もできなかった。あの時、彼を支えたのは、あの
私は、いったい何をすればよかったのだろう。何ができるのだろう。
表面では何気ない顔をして、良妻を演じてみせてはいるけれど、人間、そんなに単純に切り替えることは難しい。
あの人だって、わかっていたはずだ。妻に申しわけないと…… でも、どうにもならなかった。
そう、そうだね。どうにもならないことだって、あるかもね。
でも、それを素直に理解できるくらいなら、どんなに楽だったろう。
ねえ…… 私がいなくなったら、少しは思い出してくれるでしょうか。
あなたのいない夜を、一人で過ごしていた妻がいたことを。
(終)
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習作です。
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