マルチタスク
「あー 疲れた」
玄関から続く廊下の壁に取り付けたフックにショルダーバッグを掛け、上着をハンガーに預けてから、キッチンへのドアをあけた。
「おかえり」
ガス台の前で鍋の中のようすを見ていた、夫の
「ご飯作っておいたよ。大根煮てみた」
「いい匂い、ありがとう」
啓司が自慢げに言うのを微笑ましく感じながら、透子はシンクに目をやった。
流しの上には、汚れたボウルやザルなどの調理道具が詰み重なっていた。
「やっぱりね」
透子はつい口に出して言ってしまい、しまったと後悔した。
だが、鍋に気持ちが向いていた啓司には聞こえなかったようで、彼は楽しげに煮上がった大根を器に盛りつけていた。
台所に立ったこともなかった夫に、料理を教えたのは彼女だった。
プロポーズを受けた時、共働きなんだから家事も分け合おうと条件をつけた。
以来、啓司は約束通りに努力してくれている。
特に料理は好きらしく、彼の方が早く帰宅した時は、いつも夕食を用意してくれていた。
初めはキャベツを千切ってフライパンで焼いただけとか、もともとは卵焼きの予定だったカチカチの炒り卵とか、斬新なメニューが多かったのだが、三年経ったいまでは料理本やネットで調べて、透子の知らない料理を出してきたりする。
ただ、いかんせん男の料理なのだ。彼が料理したあとのシンクには、いつも洗い物がドッサリ残っていた。
食卓の上には、ふっくら焼かれたホッケと、キュウリとわかめの酢の物が乗っていた。
透子は炊飯器から炊きたてのご飯をよそって、向かい合わせに二つ置くと、啓司の横に並んでお椀にわかめのみそ汁を注いだ。
「よし、できた。食べよう」
啓司は湯気の立つ大根の器を食卓の真ん中に据えると、つけていた黒いエプロンをはずして椅子に腰掛けた。
「洗い物はあとでやるから、冷めないうち食べよう」
シンクからあふれそうになっている汚れ物を見ていた透子に、啓司は屈託のない調子で、声をかけた。
「大根おいしい」
熱々の大根を口のなかで冷ましながら、透子が言った。
「よかったよ、隠し味にオイスターソース入れてるんだ」
啓司は咀嚼していたご飯を飲み込んでから、嬉しそうに笑った。
「へえ、いいね。私も今度やってみよう」
満足の行く食事を終えて、ふたりはシンクの前に並んで立ち、洗い物をした。
山盛りになった中からひとつずつ取り出して、啓司が洗剤で洗い透子がお湯で流していた。
「ねえ、大根を煮ている時、何してた?」
透子が聞いた。
「何してたって、吹きこぼれないか、焦げないかとか見てたかな」
啓司が当然と言うように答えた。
やっぱりね、透子は思って、すすいだ鍋を布巾で拭き上げ、シンク下の棚に入れた。
「大根煮ている時間って、二十分や三十分かかるよね。その間、ずっと見ててたわけ?」
「うん」
「ずっと見てなくても平気だよ。その時間に洗い物しておけばいいのに」
透子は言うと、啓司は意外というような顔をして、彼女の方を見た。
「え?」
「料理って、合間に待ち時間があるから、その時に、洗い物や、ちょっとしたお掃除なんかをしておけば後が楽なんだ」
「そうなんだ」
どうやら、啓司はそのことに気づいていなかったらしい。
「二つのことを効率良くやって、自分が楽になるには、それが良いと思うよ。マルチタスクってやつだね」
透子が笑うと、啓司はなるほどとうなずいた。
「そうかぁ 仕事じゃマルチタスクは良くないって言われてるけど、家事はマルチタスクか」
最後の皿を洗ってしまうと、透子に手渡した。
「次に料理する時、やってみるよ」
啓司は、泡のついたスポンジをお湯で洗いながらうなずいた。
(終)
===================
習作です。
過去のKAC「二刀流」のテーマで書いてみたけれど公開しなかった作品です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます