08 斬撃

 寺院の中は青黒い夜の影に覆われつつある。

 落ちた円蓋の大穴を見上げると、重い雲を縦横に走る、白い血管のような残光。それはもう、ゾラの足元までは届いて来ない。

 開け放たれた正面扉の外には、野営用のカンテラが数脚立てられているらしく、人の気配はないものの地面を白々と照らしている。

 ゾラは足音を忍ばせながら聞き耳をたてる。


「……どうしてナイフをお持ちにならないのですか? 職務を放棄なされるからには、僧籍の剥奪も御覚悟の上なのでしょうか。このままですと、貴方様もお隣に吊られることに……」

「……好きにするがいい。僕は人間をやめるつもりはない」


 幾つかの短い罵声。

 鈍い音と、それに続く押し殺された呻き声。

 アルバートの、感に堪えぬといった呟き。


「キミタケ様……、どうぞ御慈悲を。これ以上私の食欲を刺激なさらないで下さい。こちらの年寄りの身体に比べて、貴方様を包む、その薔薇色の肌の紅潮。嗚呼、なんと新鮮で美味そうなことか……」


 ゾラは速やかに寺院の中央へ歩み、自分が横たわっていた祭壇を見下ろす。

 ――それは円形の切り石に囲まれた、大井戸のようにも見える。

 高さは膝程度、直径はゾラの身の丈の1.5倍ほど。

 外周を包んでいる灰色の石と、その内側の素材は明らかに異なっている。

 天盤は艶やかであり、黒曜石のように磨き上げられている。


「……この結晶が祭壇の本体」


 いいわ、早く戻ってきて頂戴と呟き、ゾラはそれを数回手のひらで叩く。

 顎を引き、鋭い目線を正面扉に向け直すと、大股で歩き始める。

 身廊の石床を堂々と歩む背中に、黒い外套がはためく。

 貫頭衣一枚に包まれた巨大な乳房と腹は、背中や腰に交差しながら回る革帯のため、その丸々とした曲線をあらわにしているが、隠そうとする様子は一切ない。

 ゾラは寺院の外へ出て、乾いた大地をブーツで踏む。

 その表面は微細な粉末で薄く覆われている。

 どこまでも広がる薄暮の荒野。青と黒。

 時折遠くで強い風の音がし、その余波が、冷たい夜気をかき混ぜてゆく。

 四脚の仮設カンテラが彼女の姿を濃い陰影で彩る。

 ゾラは迷わず、寺院左前方に集まっている人影の群れに向かう。


「……なぁキミタケ、意気地がないのも大概にしてくれねぇか。そんな性根だから戦場から逃げ出したんだって、城じゃみんな笑ってるんだぜ」

「何とか言えよ。またあの、おかしな第八言語で日記に書くのか? 俺達に苛められたってよ」

「君達、もうよしなさい。もういい。内出血が増えると肉が不味くなる――おや」


 膝をつくユキオに暴行を加えていた連中の動きが止まる。

 カンテラを背に近づいて来るゾラは、男達からは黒い影である。

 木と鉄で組み上げられた、頑丈な架台。両足を吊られているフィデルの死体。

 下には大きな桶があり、並々と黒い血が溜まっている。

 それらを囲む兵の数は、十一人。

 ゾラが革紐の端を強く引くと、剣に巻きついていたくくりが解け、剣先が背後の地面に落ちる。彼女は革巻きの柄を逆手に握る。


「……私、まだ生まれて半日も経ってないの。無作法があったらごめんなさいね」


 左手で柄を持ち直すと万力の如く絞り、右脚を軸に、その場で旋回する。

 外套が大きく広がる。彼女の臀部が白く浮かぶ。

 大蛇おろちのようにうねる黒髪。

 次の瞬間、間合いの遥か外にいた筈のふたりの顔面に鈍鉄の刃が炸裂する。

 それぞれの頭蓋骨前面が弾け飛び、二度、手を打ったような音が荒野に響く。

 向こう側に立っていた男達が、僅かによろめく程の風圧が走り抜ける。

 兵らが事態を呑み込む前に、ゾラの身体と重い剣は更に二周回り、もうふたりの首から上を破裂させる。赤い飛沫しぶきが並んで舞い上がる。

 切断されたのではない。著しい剣先の速度とその自重により、ほぼ鈍器のような振る舞いが起きた結果である。

 ゾラは剣を地面に突き立てながら半周して、はすに構えた姿で回転を止める。

 足元を粉塵が舞い、白煙となって立ち昇ってゆく。

 四人の死体がどうと倒れ込んでから、ようやく残りの連中は身構え、後ずさりし、各々の武器を抜く。

 ゆっくりと顔を上げ、肝を潰した男達を睥睨へいげいする、ゾラの眼差し。


「あらまあ……。殺し合いばかりしてたってわりに、呆気ない。もしかすると、死んでも平気だと思っていい加減に戦ってたのかしら」

「なッ、なんだ……? 女!? 何者だ⁉」

「下がれ! か、構えろ、構えろ!!」


 残り七人の内、六人が剣、手斧、そして短槍をゾラに向ける。

 アルバートだけは両手を戦慄かせながら彼女を凝視し、その顔に歪な笑顔を刻む。


「……おお、なんということでしょう! なんということだ! その腹は、もしや、孕んでいるのか!? 望外の喜び! 素晴らしい! これは、ンツ様に最高の献上となります。このアルバート、心より感謝致します……」

「ど……、どうして逃げないんだ……。あれだけ、言い含めたのに……」


 切れた唇から血を垂らしながら、ユキオが呟く。

 ぽたりと歯が落ちる。未練未酌なく殴りつけられた顔面は見るも無残に膨れ上がりつつあり、左目は潰れている。


「ありがとう。でも、その必要はないの――」


 ゾラは微笑み、また重い柄を引き絞りながら答えた。


「――この世界の男は、弱い」

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