07 手記
ゾラが一応の身支度を整え終わる頃、階上からユキオを呼ぶ声が響く。
「
おそらくアルバートなる痩身の兵だろう。
正面扉付近で呼ばわっているのか、聞こえがやや遠い。
ユキオはゾラの背中に革ベルトを結んでやりながら、舌打ちする。
「……まだ聖域を畏れる心が、連中にも一応は残っているようだが、それも時間の問題だ。もうじき日が沈む。僕が注意を引き付けている間に出立して、可能な限り寺院から離れろ。
「出て行くなと言われたら行きたくなるし、行けと言われたら残りたくなる」
「ふざけてる場合じゃないんだゾラ。……僕はこの目で、再誕するたびに怯え、狂い、絶望してゆく女達を見てきた。貴女にあんな風になってほしくない」
「その人達を、私のように逃がそうとは?」
「したさ、勿論! だけどいつもいつも、寺院の外で男どもが待ち構えているんだ! 女が死ぬのを見届けてから、ここへ迎えに来るんだ、奴らはッ……!」
「…………」
ユキオは激昂しゾラを睨み上げたが、すぐに歯を食いしばり、頭を下げる。
額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
「すまない……。僕はもう耐えられない、この地獄のような世界に。人間は愚かで、その
ゾラは黒髪の合間から、根深い苦悶に
不安定な灯りと獣脂の臭いが、ふたりの間を
「死んでも消えない自分を、責めているのね——今までに、何回自殺をしたの?」
ユキオが息を呑む。
長い沈黙がある。
彼の頬を、やがてその問いの答えがゆっくりと
ゾラの長い睫毛が、憂うように伏せられる。
「……どうしてだか、私にはぼんやり〈白煙派〉の気持ちがわかる気がしてたんだけど、気のせいだったみたい」
「…………」
「いいわ……、この世界を終わらせてあげる」
「……何?」
拝廊に足音が聞こえ、今度はより近くで「お急ぎ下さいませ」と呼びかける声。
ゾラはユキオの震えを止めようとするように、彼の肩に手を置く。
大きく、厚く、力強い手。
「私は多分、そのためにここへ来たのよ。最後の女として」
頭ひとつ以上背の高い彼女を見上げ、ユキオは大きな戸惑いの表情を浮かべる。
そして遂に、開口部にアルバートの影が差したのを見て、そちらへ歩いて行く。
ゾラはその背中を見送っていたが、彼は振り返らない。
階上で、馴れなれしい声がその後ろ姿を迎える。
「……なに、すぐに慣れますよ。まずはキミタケ様がお仕事を覚えられ、フィデル様に御指導なさるのがよろしいでしょう。私どもは明日から、再誕者が脱走せぬよう寺院の周りに柵をこしらえますので――」
足音が正面扉を出て行ってから、ゾラはユキオの置いていったカンテラを取る。
階段に近づき様子を窺ったところ、まだ扉の付近に数人の気配がある。
彼女は少し思案し、僧達の居室に入る。
中の広さは彼女が休まされていた小部屋と同じくらいだが、突き当りにふたつの書写机と椅子、筆記具などの置かれた小机があり、左右の壁は大量の羊皮紙が押し込まれた棚に占拠されている。それらの前には巻かれた薄いマットレスが二枚。
書写机のひとつを照らしてみると、書きかけの羊皮紙が広げられている。
その文字は複雑で、直線が多く、異様に入り組んでいる。
「……読めない。でも、どこかで見たことはある……」
ゾラは棚へ行き、ざっと他の紙を検めてみる。半数ほどは同様の言語で書かれているが、残りは彼女が知り、現に喋っている言葉である。
ひとまとめにされた束を取って、ざらざらと指に引っ掛かる紙面を追ってゆくと、それは概ねこの寺院の歴史を記したものらしい。
遥々北方の岩山から切り出された灰色の石材は、人と羊の手で何夜もかけて運搬され、ある種の事業として、人々の総意の元建造されたという。ただ、三十万夜以前とはあるものの、いつを基準にしているのかがわからない。
「つまり少なくとも、八百年以上昔ね」
ゾラは他の紙束に目を移す。
ンツと、彼の軍閥に関する記述と思しきものも数枚ある。
しかしそれらは言葉少なに、嫌悪も露わな筆致で綴られている。
〈集合と分離を繰り返す、悍ましき盤上遊戯の駒達〉
〈語り継ぐ者まで呪われる叙事詩〉
〈七十万夜にわたる悪夢〉
「……七十万?」
遠くで、重いものが倒れる音がした。
それに続いて数名の罵声。嘲るような調子も聞こえる。
ゾラは羊皮紙を戻し、カンテラを小机に置く。
剣の柄に手をかけながら小部屋を出ると、真っすぐ階段へ向かった。
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