04 暗廊

 ユキオの口ぶりにゾラは怪訝な顔をしたが、彼は話題を変えるようにスツールを立ち、彼女の手から空の椀を取り上げる。


「さて。この非道理な状況に放り込まれた貴女が、そんな風に極めて冷静でいられる理由はひとつしかないと僕は思う。失礼な物言いになってすまないが、その物分かりの良さの、半分が偽物だからだ」


 元いた暗がりに戻り、そこにあるらしき台に椀を置く。

 代わりに、別の椀と木皿が載った盆を持って戻る。

 椀には黄白色の液体が注がれており、皿にはチーズと、干し茸が数本。


「貴女はこれを明晰夢ではないかと疑っている。そうだろう」

「……貴方もそうだった?」

「御名答」


 ユキオは盆を小机に置き、ゾラに勧めた。


「胃袋は空の筈だ。何か入れたほうがいい」

「……私の頭は今、選択的に記憶が消去されてるわ。言葉は喋れるし、名前も覚えているのに、自分自身の過去や幾つかの概念が失われてる」

「無くなっている要素に気づけるだけ大したものだよ」

「妊娠していた覚えもない」

「この世界に今まで、妊婦はひとりも存在しなかった」


 ゾラは目を丸くして若い僧を見上げる。

 ユキオは真顔のまま、再びスツールに座る。


「……信じがたいだろうが、事実だ。ここでは女性は妊娠しない。繁殖するのは羊達だけ。そもそもこの世界には、人間と羊以外の動物がいない。魚も、鳥も、昆虫ですら。貴女や僕の記憶を消したが、そういうデザインでこの世界を作った」

「……そんなことって」

「だからこそフィデルはあんなに混乱したし、瞬時に、もし子供が産まれるなら、この衰弱して死を待つばかりの世界を変えられるかもしれないと期待した」

「…………」


 ユキオは身振りで、盆の上のものを重ねて勧める。

 黙って彼女は椀を持ち、匂いを嗅いでからひと口飲む。

 すぐに「甘い」と驚く。


「ある種の粘菌を羊の乳で溶いたものだ。それだけで生きられるほど栄養価が高い」


 食欲を刺激されたゾラはチーズを齧るが、苦そうな顔をして、すぐに盆へ戻す。

 誰にともなく首を振ってから、茸は一瞥いちべつしただけで手に取らない。

 粘菌乳をゆっくり飲み進める。

 ユキオは代わりに茸を取り、ぽいと自分の口に放り込んだ。


「……本当であれば、新来者に対して行われる一連の質問が定められている。ここへ来る前の記憶は、誕生した瞬間からみるみる内に、まるで夢を忘れてゆくように霧散してしまうものだから時間との勝負でね。でも、フィデルはそれを無視して貴女の身体について質問した」

「……訊ねられてもわからない」

「そうだと思ったよ。我々は忘却のベールをくぐってここへ来たし、自分自身の来歴や経験を語れる者など、今までひとりもなかった。……あるのはただ、最後の瞬間の断片だけ」


 ゾラの反応を見るように、ユキオはしばし黙る。

 彼女は暗闇を見詰めたまま動かない。

 

「そうだ――。膨大な聞き取り調査の結果から、それだけは確からしいと言われている。この寺院の重要な役割のひとつが、それらのピースを蒐集すること。僧達は幾つもの曖昧な証言を並べて、我々の前世がどんな場所であったかを推考し続けて来た。あの廊下の先の書庫に、今までの新来者達が語った前世の記憶が慎重に保管されているんだ。当然、僕のものもある。……そして残念ながら、貴女はもう、忘れてしまっただろうね」

「……ええ、だと思う。でも……」

「…………」

「これだけは覚えてる。貴方達を見た瞬間、

「それはこちらへ来てからのものだが、おそらくその感情が、前世と地続きになっている唯一の残滓と言えるだろう。興味深い」


 突然、どこかそう遠くない場所で、鉄製の何かを叩く音がし始める。

 耳障りな金属音が廊下の石壁に反響し、この部屋まで響いてくる。

 ユキオが眉を顰める。

 ゾラが戸惑っていると、砂を呑んだようなダミ声が騒音に乗って聞こえてくる。


〈……帰れ、帰れ! ここにお前に食わせる羊はない! 元いた碌でもない世界に帰りやがれ、この新参者! 俺達の食い扶持を分けてやったりはしないぞ、絶対に! 絶対にだ! おい、聞いてるのか! 坊主ども、早くそいつを穴の底に叩き戻せ! この世はもう満席だって言ってやれ!〉


「……実は、この廊下の先には土牢もあってね。意図的に祭壇を破壊しようとした者が放り込まれている」

「私、歓迎されてないのね」

「彼は〈浮遊思想〉なんだ。前世がここより酷い場所だったと信じている。何らかの試練の末、この恵まれた世界に登ってこられた、と。そのような思想は立ち上る煙になぞらえて、〈白煙派〉とも呼ばれている。ある意味では幸せな連中だよ。……逆に、もっとマシな場所からここへ落ちて来てしまったと考えるのを〈沈澱思想〉と言い、下には更に環境の悪化した世界があって、我々もいずれ無限に落ち続けてゆくと考えるのが〈奈落派〉だ」

「あなたはどっちなの」

「さあね……。本音を言えばどちらでも構わないんだが」


 ユキオは嘆息し、また干し茸を一本つまんだ。


「この世界を理不尽だと感じるのは、僕達が道理を知っているからだ。ならば元いた世界は、少なくともここよりは理屈のとおった場所だったんだろう。少なくとも、何度も何度も死から蘇るのは異常だとわかっているし、人間と羊だけの世界なんてデタラメだと思っている。子供が産まれなければ、未来への希望も抱けない。……ただそれらのことと、人間が幸福であるかどうかとは、また別の話だろうね」

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