05 来訪
石か何かで鉄柵を叩いていると思しき、不快な音は執拗に続く。
ユキオは特にそれを止めに行こうとはせず、重たげなゾラの乳房に目を落とす。
「話の続きの前に、やはり
「……女だから?」
「ここの男女比は20:1くらいしかない。元々の誕生率が少ないことに加え、男どもの暴力に耐えかねて絶望に至るのが早い」
「なるほど。ここでは理性も失われるのね、残念」
ゾラは呆れたように鼻息を漏らす。
ユキオは立ち、部屋の戸口へ向かう。
「それも否定できないが、何より気がかりなのは、その腹だ。寺院の外の連中が妊婦を見て、一体どんな反応をするか予想できない。……正直なことを言うと、外に出るべきではないと僕は思っている」
「奥の囚人さんと仲良くなるつもりはないわ。どうぞご心配なく、私も自分の身は自分で守れる」
去ってゆく小柄な背中に声をかけて、ゾラはまた寝台に横たわる。
牢を叩く音は段々と間隔が空き、力ないものになって、やがて止む。
〈……畜生、莫迦野郎。お前達はなんにも知らないんだ。俺達がどれほど幸運なのか、想像しようともしない。噓っぱちばかりだ。どこの寺院の坊主も、嘘しか教えない。本当のことを言えば投獄される。みんな投獄される、誰も彼も。お前達にとって都合が悪いから。真実を知られたくないから……〉
囚人の声は段々とか細くなり、ほとんど独り言のようになる。
ゾラは天井を見詰めながら、しばらくその声を聞いている。
彼女の表情は僅かではあるが緊張を帯びたり、苦悩を浮かばせたりして、黙考に伴う変化を表す。
どのくらい経ったか、そうする内に灯明皿の油が尽きる。
小部屋の中は完全に真っ暗になる。
「……ひょっとして、
ゾラは呟き、起き上がる。
寝台を降りたが、己の腹の重さにやや驚いて、両足を踏ん張る。
「なるほど、こうなるのね……。」
膝を数回軽く曲げて、重心を測る。
毛布を
石床は滑らかで冷たい。
ほとんど足音を立てることなく、ゾラは廊下に出る。
明かりは右側から差しており、短い通路の先にほんの五段ばかりの石段があって、その上には寺院の内壁が
通路の反対側は、更に下へと降りてゆく階段になっている。そちらからはもう、囚人の
ゾラは階上へ向かう。
寺院の正面扉近く、拝廊の隅の開口部から彼女が姿を現すなり、扉の傍にいたユキオとフィデルが驚いて振り返る。
「いけない。下にいるんだ、ゾラ」
先ほどまでの落ち着いた様子とは異なり、焦燥もあらわにユキオが言う。
フィデルも髭の合間から唸り声を漏らし、乱暴に手を振る。
「隠れていなさい。今すぐ」
ゾラは何か言いかけたが、黙って数歩階段を下りる。
石廊の壁に背中を預け、耳を澄ます。
「――早く開けろ、ンツ様をお待たせするな! これ以上時間を稼ぐようなら、扉を破壊する!」
屋外から怒声が響き、ざわめくような足音、あるいは甲冑の擦れ合う音もする。
フィデルが覚悟を定めた顔で、扉から閂を引き抜く。
すぐに扉は荒々しく押し開かれ、五人ばかりの男達が寺院に進入する。
いずれも揃いの装束を着ており、黒く染められた革の胸当て。腰には剣。
ゾラは毛布を頭から被り直し、更に数歩下がる。
ふたりの僧は男達に囲まれ、背中を押されながら連れ出される。
足音が充分に遠ざかったのを見計らい、ゾラはまた、開口部に上がった。
開け放たれた扉の脇まで進み、慎重に外の様子を窺う。
殺気立った気配からも、数十人の武装した男達が来ているのは間違いない。
「……新来者があったろう。連れて来い」
「……まだ目覚めておりません」
「なんだ、寝坊助だな。それにしても珍しい、いつぶりだ?」
「……さて、数千夜としか」
問いかけに答えているのはフィデルである。
ゾラは扉の陰から僅かに顔を出して、横柄な質問の主を確認しようとする。
鋭い槍を幾本も天に向けた、黒ずくめの集団の先頭。
その男は、奇怪に捻じ曲がった角を持つ動物に乗っている。
どうやら羊らしいが、馬のように大きく、普通の品種でないことは明らかである。鼻面と胴に男達と同様の革鎧をあてがわれており、渦を巻く黒毛と相まって、ただそこに立っているだけで一種異様な威圧感を発散している。
「ブラーンよ、いつぶりだ」
「……八千と二百三夜ぶりでござります」
「八千! これは新記録だろうな、もうすっかり打ち止めかと思っていたぞ」
ブラーンと呼ばれたのはその羊の横に控えている、立っているのもやっとに見える老いさらばえた従者。禿頭で、僧衣に似た服を着ており、杖を突いている。
「この
「占術が殿に献じ得るものは、
「ハッ。なんだ、頭の固い。縁起の良し悪しくらい教えてくれてもよかろう」
主人の苦笑に、老従者は低頭する。
羊に乗った男は己の顎鬚をつまみ、思案をする。
黒い胸当てに施されているのは、革に浮き押して描かれた花の紋様――だが、まるでそれは花を見たことがない者の手になるかのような、歪んだ花弁と不気味な
装束は白と黒の複雑な混成で、一見すると遠近感が狂い、腕や足がどの方向を向いているのか掴みづらい。
そしてその顔は、快活な口調とは裏腹に、生皮で作られた仮面の如く凪いでいた。
「……まあ良い。ここまで来て引き返すのも面倒だ。僧達よ、このンツの名において命じる。世の飢饉を処決せんがため、本日をもって我らがこの寺院を接収する」
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