02 祭壇

 ともかく我々の勤めを果たそうとユキオは言い、立ち尽くす老僧の肩を叩く。

 まずは奥の間から擦り切れた毛布を運んで来て、うやうやしく女の身体に掛ける。

 続いて炊事場のかめから椀に一杯の水をすくい、一片のチーズと共に盆にのせて、祭壇の傍の小机に置く。

 それから地下の書庫へ降り、羊皮紙の束と鉄のペン、墨壺を持ち出す。


「もう何千夜も昔の記憶だから確かではないが、たぶん前回は、僕が問答役を勤めたように思う。だから今日は、本来なら貴方の番だが、どうする。難しいと感じるなら交代しても良い」

「……いや、私がやろう。ありがとう」


 フィデルはようやく女を見詰めるのをやめ、ユキオが用意してくれたスツールに腰を下ろす。それと同時に、祭壇の上の毛布が小刻みに動き始める。

 ユキオがペンを構え、顎を引く。


「……目覚める」

「ああ」


 ゆっくりと息を吐き、女が身じろぎする。

 仰向けになったことで毛布の下の巨大な三つの隆起が揺れ、ひとつは天に向かって盛り上がり、ふたつは左右に崩れて広がる。

 小さく呻きながら、女の睫毛が開く。


「……どこ? ここは……」


 ユキオが羊皮紙にペンを走らせる。

 フィデルは返事をせず、自分の髭を撫でている。

 女は崩落した天井の先に見える黒雲を、しばらく眺める。

 それから億劫おっくうそうに頭を動かして、己の傍にふたりの僧がいることに気づく。


「……誰?」


 フィデルはまだ黙っている。

 やがて充分に意識を回復した女が、その身体をゆっくりと起こし始める。


「……何があったの? どうして、私は」

「ここは終わりのない世界だ。お前はこれから、血と暴力にまみれて数え切れぬほど死を繰り返すことになる。絶望と共に、お前の名前を言え」

「……何?」

「お前の名前を言え。他の何を忘れても、それだけは覚えているだろう」

 

 ごくり、と女が唾を呑む。

 

「……ゾラよ。私は、ゾラ」

「ゾラ、お前の腹は何だ」

「フィデル、待て」


 ユキオが慌てて老僧に声をかけるが、フィデルは岩のように強張ったまま、振り返りもしない。

 ゾラは怪訝な顔になり、ふたりの僧を見比べる。


。なんてこと、ここには人間が……」

「ゾラよ、お前の腹が膨らんでいる理由を言え。?」

「フィデル!」


 筆記具を放り出したユキオはフィデルの肩を掴み、そのまま強引に彼を立たせ、祭壇から引き離す。顔を近づけ、唸るような小声で叱責する。


「何を考えてるんだ、問答が出来ないなら代わると言った筈だ」

「我々はこの女の正体を知る必要がある。この世で仔を成すのは羊だけ、羊には魂がないからだ、魂があるかのように振舞うだけの物体だからだ、魂が増えるのはこの祭壇においてのみ、そしてこの女は孕んでいる、つまり新しい魂を宿している可能性がある、ならばこれは我々が祭壇を介して繁殖に至れる道を示唆する」

「黙れ、黙れ! 目覚めてしまう、余計な言葉を聞けば聞くほど彼女は目を覚ます! 前世の記憶を失ってゆく!」

「前世などどうでもいい! 二度と戻れない世界の話を聞いてどうする、何の意味がある! 我々に必要なのは未来だ、発展だ! この女は、その鍵だ!」


 ユキオはフィデルを突き飛ばし、石の床に転倒させる。

 そして足をもつれさせながら女のもとへ戻り、彼女の黒い瞳に向き合う。


「……ゾラ。人間がいる、とはどういう意味だ。貴女が最後に見たものは何だ」

「…………」

「些細なことでもいい、音でも、印象でも。ここへ来る前の、最後の瞬間のことを教えてくれ、ゾラ」


 じわじわとゾラの顔が下を向き、己の大きな乳房に引っ掛かっていた毛布を見る。

 彼女は自ら、それを引き下ろし始める。


「……頼む、ゾラ。?」


 殆ど祈りにも似た問いかけは、もう女の耳には届かない。

 水嚢すいのうのように垂れ下がる豊かな乳。薄く透ける青い血管。

 下端近くには赤茶に染まった乳輪が、輪郭も曖昧に大きく広がっている。

 ゾラの息が荒くなる。

 顎が震えている。


 丸々と張り出した産み月の腹を見下ろし、それが紛れもない自分の身体の一部だと認識した時、ゾラは絶叫した。

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