マタニティ・ゾラ

宿主

01 寺院

 黒と、白と、赤。


 天蓋をどこまでも厚く覆う、暗澹あんたんたる黒雲。

 風化した骨粉が吹きすさぶ、不毛の荒野。

 そして血。


「……ビェエエエッ! ビェエエエエエッ!」

「終わりなき地にもたらされる終末こそ、無上の祝福なり」


 朽ちかけた架台に、逆さに吊り上げられた羊。

 その喉を、錆の浮いたナイフが割く。

 家畜の血は出口を求めていたかのように一気にほとばしり、若い僧の足元に置かれた桶の中で、熱い波を立てる。鮮烈な、血潮の赤。

 僧は短い黙礼の後、ナイフを黒い僧衣の裾で丁寧に拭い、腰のベルトへ戻す。

 羊は四肢を断続的に痙攣させ、荒縄を揺らす。

 灰色に乾いた架台の柱が、今にも折れそうに軋む。

 僧は振り返り、少し離れたところで僅かな地衣類を探しては食む羊の群れを見る。

 こちらの様子を気にしているのは一頭だけで、それはまだ毛足も短い仔羊である。


「…………」


 しばらくの間、僧の濃茶の瞳が仔羊を映す。

 呼吸が深くなる。深く、大きく。

 右手がゆっくりと、ベルトに差したナイフに伸びてゆく。

 ――が、すぐに左手に巻いていた念珠へと向きを変え、それを手首からほどいて、小さな骨の珠をひと粒ひと粒数え始める。


「……終わりなき地に齎される終末こそ、無上の祝福なり。終わりなき地に齎される終末こそ、無上の祝福なり。終わりなき地に齎される終末こそ……」


 まだ幼さの残る、ひいでた額にうっすらと汗が滲んでいる。

 彼は架台越しに、石造りの寺院の背面を見上げる。

 羊達を追い込む木柵や毛刈りの作業場、更に屠畜用の架台や解体加工小屋を含む、養羊施設一式が設けられているのは寺院の裏手、周歩廊の外壁沿い。

 それらの全ては言わずもがな、寺院本体においても老朽化が甚だしい。

 あちこちの床石が浮き上がり、東の翼廊に至っては崩れ落ちている。

 飾り気のない円蓋は南側の一部が失われている。

 その上に垂れ込める暗雲。

 果てしない大きさをした生き物のはらわたのように、ゆっくりと蠢いている。

 ぶつぶつと聖句を呟きながら、僧は念珠を数え続ける。

 その声は段々と抑揚を失い、無意味な振動となって、荒野に吸い込まれてゆく。

 虚ろな瞳には、もう何も映っていない。

 落ち着きを取り戻した僧が、念珠を手首に巻き直そうとした時――。


 途轍もなく重い、音無き太鼓の一打が世界に響き、彼の足元を揺らす。

 吊られた羊の死骸が激しく揺れ、そのまま荒縄を引きちぎり、けたたましい音を立てながら血桶の上に落下する。

 貴重な血液が白粉に覆われた大地に飛び散り、瞬く間に吸収されてゆく。

 愕然とした表情で硬直していた僧は、歯の隙間から息を漏らし、慌てて正面扉に向かって駆け出す。


「……なんてことだ。新来者なのか?」

「ユキオ、扉を閉めろ! かんぬきもだ!」


 寺院の中へ駆け込むなり、奥にいた老僧に指示される。

 言われるがまま、ユキオは重い鉄枠で補強された扉を苦労して閉じる。

 建物の中は薄暗さを増す。落ちた円蓋から注がれる貧弱な明かりが、寺院の中央にある円柱形の祭壇のまわりだけに、霧のように溜まる。

 老僧は、その祭壇に半ばすがりつくようにして震えている。

 丸太の閂を掛け終えたユキオは、突如足取りを重くし、両目を見開いてゆっくりと身廊を歩き出す。


「……フィデル、大丈夫か」

「……こんな事態は、今まで記されたことがない。他院の僧達からも聴いたことがない。あり得ないことだ、ユキオ」

「落ち着け、貴方らしくない。どうしたって言うんだ」


 近づくにつれ、フィデルの黒い僧衣の向こうに真っ白な女の肌が見え始め、若い僧は小さく息を呑む。

 長く伸びる脚。しっかりと肉付いた太腿。

 女はこちらに向いて横たわっている。

 広く張った腰。


「…………」

「私たちはどうすれば良い? お前は、この女が何だかわかるか、ユキオ?」 


 更に数歩進んだところで、革のサンダルを鳴らしてユキオは立ち止まる。

 その膝が震え始める。

 フィデルは唇を戦慄わななかせながら、こちらに振り向く。


「教えてくれ。この女は何だ、特別なやまいか? それとも奇形か?」

「……違う。貴方も知っているだろう」

「嘘だ。そんな筈はない。ああ終末よ、終末よ来たれ……」

「目の前にあるものを否定するな、フィデル。僕達は卑しくも理性の徒だ」


 膝上ほどの高さの、石造りの祭壇。

 そこに寝そべる女は並みの男よりも大柄で、充分に発達した筋肉をそなえている。

 水研ぎされたように滑らかな、骨より白い肌。

 豊かな黒髪と長い睫毛。彫りの深い顔立ち。

 そして、巨大な膨張が三つ。

 祭壇上に垂れ広がる、頭よりも大きなふたつの乳房と――丸く、硬く張り詰めた半球形の腹。


「……。しかも臨月の」


 己の口をついて出た言葉に動揺し、ユキオは眉をひそめる。

 慌てて念珠を掴み、ほどこうとしたが、誤って引きちぎってしまう。

 沢山の軽い音を弾かせながら、骨片の珠が寺院の床に散乱する。


 巨大な石棺に閉じ込められた虫のように、ふたりの僧は沈黙し、ただ眼前の豊満な女体を凝視した。

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