青春小説

卯月なのか

第1話

 近所に、少し年季の入った古本屋がある。ちょっとおしゃべりな、ふさふさの白髪のおじいさんが営む、小さな店だ。本の値段は、学生の財布にかなり優しい。おじいさんとの会話と、面白い本探しのために、僕はよくそこへ行く。

 今日は、これから一人暮らしする部屋に連れて行く本を探しにきた。

一冊増えるのは面倒なのだけど、なんだか、今の僕の気持ちを落ち着けるような本が欲しい。漠然とそう思いながら、少し重たい、焦茶色の木の扉をあけた。

「いらっしゃい」

おじいさんは、手元の新聞から顔を上げて、男性にしては少し高めの、優しい声で僕を出迎えた。蜂蜜みたいな、甘い紅茶の香りがする。栗色の眼鏡の奥の目が、にっこりと細められる。目尻の皺、ちょっと増えたんじゃないかな。

「こんにちは」

そう言って、小さくおじぎをすると、僕は早速本棚の方へ向かった。これだけの本があると、なかなか居ても立っても居られなる。つい癖で、いつものミステリ小説のコーナーに行く。この店には、ミステリ小説がやたらと多い。おじいさんの好みなのだろうか。

ただ、特別欲しいと思った本は無かったので、他のコーナーも見てみることにした。平日の昼間だからか、客は僕一人だった。その分ゆっくり見れて、良かったけれど。

春休みで時間もあるし、普段は寄らないコーナーに立ち寄った。ここは、恋愛小説が多めだ。他のコーナーに比べると、やけに本が少なかった。確かに、おじいさんはあまりこういう本は読まなそうだ。僕も普段これ系統のものはあまり読まないが、その分ちょっとした新鮮さがあった。綺麗なイラストの表紙の、俗に言う切ない系、みたいなものが多い印象があった。割と新しめの本も多く、ここだけは妙に統一感が無かった。

 その中に、一冊の本を見つけた。

古ぼけた本棚の、一番下の段の、左の端に、他の本に隠れるみたいに、それはあった。かなり古い本のようで、タイトルがかすれていて読めない。ハードカバーの表紙は、セピア色になっている。元々は違う色だったのかはわからないが、その本だけ、この空間にオーパーツみたく存在していた。他のもの達に比べると、やけに分厚く、他の本とは違う、言葉では形容し難い、謎の存在感があった。

どんな内容なのか、物凄く気になる。僕は、その不思議の扉を開けてみることにした。

一ページ捲ると、題名が記されているであろうところに、青いインクが染みていた。かなり昔についたらしいが、やけに鮮明な紺碧だ。

次のページには、目次があった。最初の方の字は、印刷がはっきりとしていて、やっと読むことができた。目次には、入学式、球技大会、など、学校行事の名前が沢山ある。その他の章題は、日付のようだった。

 どうやらこの小説は、日常系の青春小説のようだ。

しかし、後半の方の目次は、かすれていたり、青いインクが染みていて、また読むことができなかった。おじいさんの管理のお陰か、埃も、傷一つも無いのに、本の中身だけ、やけに状態が悪い。何故おじいさんはこの本を売っているのだろう。本をとても大切にするおじいさんなら、絶対に売らないはずだ。少なくとも、僕がおじいさんだったらそうする。

それでもやっぱり気になって、僕はまたページを捲った。最初の話には、入学式、という章題がついていた。立ち読みはあまりよろしくない行為だが、僕は何故かその本に囚えられてしまった。

 それから、僕は夢中でページを捲った。

 でも、中身は何の変哲もない、ありきたりな物語だった。

ざっと数十ページ読んだところ、この物語は、一人の女子高校生の日常を書いているらしかった。ただ、その日常が、文字通り『日常』で、僕は少しがっかりした。登場人物達は皆個性的だが、これではまるで日記を読んでいるみたいだ。こんなものが、あと何百ページもあるのかと思うと、途端に馬鹿らしく思えた。

それでも、何故かこの本を棚に戻す気にはなれず、もう少しだけ読み進めた。

物語が進むにつれて、部活要素や恋愛要素が入ってきて、少し面白みが生まれてきた。主人公の感情も、大きく動く場面が増えている。青春の、きらきらした部分がほとんどで、やはり内容は薄い。でも、その割には、やけにリアリティがある。どのストーリーの、どの場面も、そんなに大したことでもないのに、やけに大袈裟に書かれている。でも、それはまるでクラスメイトの噂話を聴いているみたいで、そして、隣の席の女の子と話しているみたいな気持ちにもなった。そんな感情が芽生えたら、なんだかこの物語が、少しだけ良いものに見えた。主人公も、多くの人との関わりの中で、だんだんと成長していく。その様が、さっきまでより愛おしく思えた。この物語の作者が誰かは、かすれていてわからないし、文章は高校生の日記のようだが、実は物凄い小説家によって書かれているのではないかとさえ思った。読めば読む程、不思議な物語だ。

「あっ、その本」

三分の一ほど読み進めたところで、隣から急に声がした。驚きで、肩がぴくりと動いた。右隣をふと見てみると、そこにおじいさんが、いつの間にか立っていた。おじいさんは、百七十センチの僕の、肩の高さから、僕の手元のこの本を覗き込んでいた。今でこそ、腰のまがって、背の低いおじいさんだが、昔は僕より背が高かったらしい。本当なんだろうけれど、なんだか信じたくなくて、僕はその話になると、本当なんですか、とか言ってふざける。そう言うと、おじいさんはいつも、はははは、と、朗らかに笑うのだ。

「す、すみません!つい」

僕は、立ち読みを注意されると思って、本を棚に戻そうとした。

「いや。いいよ、読んでいても。」

「えっ、でも」

「その本はいいんだよ。あ、そうだ!せっかくだから、こっちで読みなさい。立っていると、疲れるでしょう」

そう言っておじいさんは、僕を急かすみたいに、レジカウンターの方へ歩き出した。おじいさんのくせに、歩くのが速い。

「ここ、座りなさい」

カウンターの内側に椅子を用意してもらい、そこにおずおずと腰掛けた。

「すみません、ありがとうございます」

僕の言葉に、いいよん、なんてお茶目な返事をして、僕に温かい紅茶を出してくれた。おじいさんが飲んでいるのと同じものだ。

「いただきます」

一口飲むと、口の中に、優しい、蜂蜜の甘さが広がった。香りが良く、なんだかこの小説にぴったりに思えた。

「苦いのは苦手かなと思って」

そう言って、おじいさんはにやりと笑った。おじいさんは、たまにこういう、ちょっとだる絡みしてくる同級生みたいなところがある。

「やだなぁ、もう僕子供じゃないですよ」

「ははは、そうだったそうだった。あれ、今年で何年生だっけ?」

おじいさんは、僕の隣に腰掛けて、紅茶を一口飲んだ。蜂蜜の甘い香りがする。おじいさんは、僕も含めて、この辺りの住民にとって、本当の祖父のような存在だった。でも、おじいさんに本当の孫がいるのかどうかはわからない。身近だけれど、少しミステリアスな人でもあった。

「春から大学生です」

「そうなんだ、早いねぇ」

おじいさんは、他人事みたいに言って、また紅茶を一口飲んだ。

「それ、値段がつけられないんだよね」

僕が手元の小説を読もうとしたとき、ふと、おじいさんが言った。おじいさんは、少し遠い目をしていた。

「汚れてるからですか?」

僕の問いかけに、おじいさんは小さく首を横に振った。

「その本はね、わしの母の本なんだよ」

「え、おじいさんのお母さんが書いたんですか?」

おじいさんは、うん、とゆっくり頷いた。

「わしが生まれる随分前、母は小説を書くことが好きだったたらしい。プロになりたかったけど、なれなくて、父と結婚する頃には、もうすっかり諦めていたそうだ。……その本は、母が最後に書いた物語だよ。ただ……」

そう言って、おじいさんは口ごもった。さっきまでとは、少し表情が暗くみえる。

「ただ、何なんですか?」

僕はどうしても気になってしまって、おじいさんに聞いた。すると、おじいさんは不思議なことを言い出した。

「その本はね、その持ち主の青春時代が描かれる、魔法の青春小説なんだよ」

「えっ⁉……どういうことですか?それ、本当なんですか⁉」

僕は思わず、カウンターに身を乗り出した。白い陶器の紅茶のカップは、驚いたように小さく揺れた。おじいさんは、僕の身体の前で、掌だけで、落ち着け、と伝えた。僕は、渋々椅子に座った。

「どうしてそんなことが起きるのかは、わしにもわからない。三十年くらい前に、一度だけこの本を買い取った人がいたんだけど、気味が悪いといって返品されてね。それ以来、今もこれはここに眠ったままさ。まぁ、前の持ち主の気が、狂っていただけなのかもしれないけれど。やれやれ、歳のせいかあまり思い出せなくてねぇ」

おじいさんは、喋り疲れたと言いたげに、きゅっと自分の目頭を抑えた。鶯色の作務衣からのぞく、細くなったしわしわの腕が、紅茶のカップを持ち上げる。甘くて優しい蜂蜜の匂いは、昔のことを思い出すみたいな、懐かしい香りがした。

僕は、手元のこの小説に目を落とした。おじいさんの母親が書いたらしいこの不思議な小説を、なんだか手放したくないと思った。別に、僕のものじゃないのに。これじゃ、片想いを拗らせてるみたいだ。恋にあまり良い思い出がないから、よくわからないけれど。

「それ、欲しいなら、君にあげるよ」

顔を上げると、おじいさんが、僕の気持ちを見透かしているみたいに、にっと笑った。黒目がちな小さな瞳が、きゅっと細められる。

「じゃあ……いいですか?これ」

僕は、おじいさんの挑発にのることにした。

「もちろん。君にあげるよ」

おじいさんは、にっこりと笑った。それは、今まで見た、おじいさんの笑顔の中で、一番優しい笑顔だった。僕は、窓から入ってくる日差しのせいなのか、それを真っ直ぐに見れなくて、セピア色の表紙に乗ったちりを払うふりをした。


 それから、数日が経った。咲いたと思った桜は、気づけばすっかり葉桜になってしまって、忙しいのか暇なのかわからない大学生活が始まった。

幸か不幸か、あの青春小説は、まだ、あの時から何も変化はない。それはもう、おじいさんがホラを吹いたんじゃないかというほどに、ない。アパートの狭い一室の、小さな本棚に、謎の存在感を放ったままでいる。

でも、あの小説を読むと、懐かしいあの町を思い出す。この前野菜とお米と一緒に、激励の手紙をくれた家族のこと。今でもまだ連絡をとりあっている、一足先に就職した友のこと。そして、いつも僕にたくさんの不思議をくれた、おじいさんのこと。寂しくなることもあるけど、それらがあれば、僕はきっと大丈夫だ。


 今日も僕は、人生という名の小説を、読み進めていく。

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青春小説 卯月なのか @uzukinanoka

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