第17話
撮影が終わり、楽屋で昼食を摂っているとエディが現れた。
「ひさしぶりねえ!みんなさんエディにあいたかったか?」
エディはオフィスウイルドのインターナショナル部門に所属している社員だ。
年齢は27歳。生まれは、ドイツ人である父親の故郷デュッセルドルフである。ここで幼少期から少年期を過ごし、16歳のときに母親の仕事の関係で家族揃って東京へ移住してきた。ひとりでドイツに残り親戚の家や学校の寮に世話になる選択肢もあったが、彼は日本の文化を愛していたため、このチャンスを逃すつもりはなかったという。
大学進学を機に一度ドイツへ戻ったが、その数年後――今から2年ほど前に、彼は念願の帰国を果たした。母親が日本人であり日本国籍を持つ彼は、この地に骨を埋めるつもりで戻ってきたらしい。
新宿区神楽坂を拠点として仕事を探していたところ、縁あってオフィスウイルドに就職した。現在は所属俳優やアーティストの海外公演に通訳として同行する他、外国語の講師としても活躍している。ウル・ラドのメンバーとは英会話のレッスンを通じて親交があり、気心の知れた仲だ。
両者の信頼関係が築かれていることもあり、彼はホズミ不在の際にマネージャー代理を任されていた。代理としてやって来ると、いつもならば笑顔で歓迎してくれるメンバーだが……今日の彼らがまとう空気は非常に重苦しい。
タビトはいつも通りハグで迎えてくれたが、他のメンバーは軽く手を挙げて挨拶を返してきただけで、冷たい弁当に視線を落としてしまう。エディはかなしそうな顔をして広げていた両腕を下ろし、肩を竦めた。
「なによみんなさん、くらいねえ。かお、コワいですよ。ケンカか?」
「ユウのこと聞いてないの?」
あまりにあっけらかんとしているエディを見かねてタビトが問うと、彼は白い歯を見せる。
「ああ、しってるしってる!かいだんで、こけた。ネンザでしたでしょ」
「こけたんじゃなくて落ちたんだよ」
「え?シャチョサンは、コケタって言ってたけどな?コケタ、っていうことば、ありますでしょ?」
「あるけど……こけたと落ちたじゃちょっと違うんだよ。ホズミさんは落ちたって言ってた……。入院するかもしれないらしいし、酷い怪我したから救急車騒ぎになったんじゃないの?」
ふむと唇を曲げたエディは、考え考え言葉を紡ぐ。
「たぶん、ニューインはですねえ、コケちゃったリユウのせい。ユウは、すごいめまいでクラクラしちゃった。だからかいだんでコケタって、シャチョサンがいってたよ。でもアタマ、けがしなかった。どしてめまいになったか、しるためにケンサニューイン?というでしたか?からだのチョーシを、ぜーんぶチェック!てなワケです」
「で、結局誰の情報が正しいんだよ」
ヤヒロが唐揚げを箸でつつきながら溜息交じりに言う。
「そりゃシャチョサンでしょ。ホズミはねえ……なんていうのでしたっけ?――そうそう、“そそっかしい”し、オオゲサなところあるですから」
昼食に手をつけようともせず、鏡の前の椅子に座ってスマホをいじっていたセナがようやく顔をあげ、エディに訊ねた。
「いつまで入院になるのか、社長から聞いてる?」
「ボクは、それわかりませんねえ?ケンサして、モンダイないなら、おうちかえる。チョーシがわるいでしたら、だめ。じかんかかるよ」
「女の問題の次は病欠かよ。ふざけやがって……」
「ヤヒロ……そういう言い方しないの。ユウの分までがんばろう」
アキラは言ったが、その微笑はどこか陰っている。タビトはほとんど無意識にセナに目をやったが、彼にこれといった反応はない。
こんなにもグループ内の空気が悪くなったことはこれまで一度もなかった。タビトは途方に暮れ、割り箸を箸袋に戻すと弁当の蓋を閉じる。
ほとんど手がつけられていないそれを横目に見たエディは口元の髭を撫でながら椅子を引き寄せると、タビトの横にどかりと座って彼の顔を覗き込んだ。
「どうした、きょうだい?からあげたべないなら、エディがいただきますけど?」ことさら明るく言いながらタビトの肩を抱く。「だいじょうぶよ、しんぱいするな。ね?ぜんぶうまくいくだから。いい?OK?」
エディにそう言われると、本当にそうなる気がするから不思議だ。
すこし笑顔を取り戻したタビトは頷き、いつものハンドシェイクを交わす。彼らが決めた“仲間の証”だ。
底抜けに明るいエディのおかげでメンバー間の気詰まりな雰囲気は若干改善され、午後のバラエティ番組収録もスムーズに終えることができた。セナもさすがアイドルといったところか――楽屋でのあの暗い表情などおくびにも出さず、スタッフやカメラの前で輝く笑顔を見せていた。
予定通りにスケジュールを消化したものの、タビトが帰宅したのは22時。メイクを落とす前に、新年になってから初めてのライブ動画配信でファンと交流した。それからゆっくりと風呂に浸かる。
――そしていよいよ、いつもの「あれ」を確認する瞬間がやってきた。
身を清めた彼はすこし緊張した顔つきで食卓に座る。
最近は帰宅して真っ先に報告書を確認していた彼が、今日はなぜためらっているのか……それは、前回綴ったメッセージに起因している。
チカルへのメッセージはいつも長文になってしまうが、前回は特にそうだった。たくさん映画を教えてくれたことが嬉しくて、気持ちの赴くまま書いてしまったが――もしかしたら鬱陶しいと思われてしまったかもしれない。そう考えると、なかなかファイルを開く勇気が出なかったのである。
ひとつ深呼吸した彼はようやく覚悟を決めて、心臓が激しく脈打っているのを感じながらリングファイルの表紙をめくった。
どんな作業をしたかが仔細に書かれている部分を視線でなぞり、とうとう最後の欄まで辿り着く。そこには、前回こちらが残したメッセージに対しての返信が綴られている。
おかえりなさいませ。本日もお疲れさまでした。
映画の件ですが、埜石様のようなお若い方に薦める映画としては、すこし渋すぎたかもしれません。私にとっては本当におもしろい作品なのですが、好みではなかったらごめんなさい。
久しぶりに映画雑誌を買いました。いつか話題の映画についてお話ができたらいいなと思っています。
長々と失礼しました。ゆっくりお休みになってください。
それでは、また。
読み終わると、タビトは静かに目を瞑り天井を振り仰いだ。
手探りでリングファイルを閉じて表紙に両手を乗せ、深く深く息を吐く。
――前回のチカル宛ての返信には、たくさんの映画を紹介してくれたことへの感謝を綴った。そして、映画鑑賞が趣味で映画館によく行くことや最新作を欠かさずチェックしていることも書き添えた。
このメッセージを読んで彼女は「久しぶりに映画雑誌を買った」という。
しかもだ。それだけではない。映画という共通の趣味を持つ者同士で話がしたいと思ってくれている……
彼はそこまで考えてたまらない気持ちになり、ひとり悶絶した。足をじたばたさせ声にならない声をあげる。
顔から耳まですっかり熱い。ひとしきり騒いだ後なぜこんな思いに駆られて狂ったようになっているのかと我に返った。
ほてった耳に冷たい手を当てて、彼はもう一度長く息を吐く。
――どうかしてる。そう思ったが、悪くない気分だ。彼はまだ熱い頬を手のひらで覆い隠すように頬肘をつくと、半ば放心したような状態でリビングを眺めた。
塵ひとつ落ちていない、静まり返った部屋。投げ出したままだったブランケットはきちんと畳まれ、ぺちゃんこだったクッションは膨らみを取り戻しソファを飾っている。
彼は細かい光の散る双眸をファイルに戻し、再びページを開いた。チカルの文字がかわいらしく転がっているのを眺めて、ふと口角を崩す。
明後日になれば彼女はまたこの部屋にやってきて、真面目に仕事をし、こうしてメッセージを残してくれるだろう。
今日あった辛い出来事をつかのま忘れていたことに気付く。この何気ないやりとりに癒されている自分がいることを、彼は認めるしかなかった。
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