第18話
千葉県にある国際空港の到着ロビーで、チカルは電光掲示板を見上げている。
待ち人が乗っている便の到着時刻は9時30分。乱気流のせいで40分ほど遅れたが、ロサンゼルスから彼を乗せてやってきた飛行機は無事に日本の空港に着陸した。今ごろ入国審査だの荷物受け取りだのと慌ただしくしているだろう。
迎えに来た人々でひどく混雑し始めたため、彼女は群衆からすこし離れた場所で到着口を見守る。
ひとりでロビーに出てきて黙々とスーツケースを転がし去っていく人、土産物を山ほどカートに積んだ旅行帰りの人、寝ている子どもを抱っこした家族連れ。迎えが来ている人はそれぞれ再会の喜びに抱きしめ合ったり、ぎこちなく挨拶を交わし合ったりしている。
そんな光景をしばらくのあいだ遠巻きに見ていたが、こちらの再会相手は一向にやってこない。時計を見れば、到着からすでに1時間以上が経過している。
スマホを見ても連絡はきていない。これまでアメリカを拠点に世界中を旅してきたという彼はあらゆる空港で足止めをくらってきたらしいが、例にもれず日本の税関にも引っ掛かったとみえる。彼女は表情を曇らせ、メッセンジャーアプリを開いた。
そのタイミングで電話が鳴る。――待ち人ではなく、ホズミからだ。
「いつもタビトがお世話になっております」
周囲の雑音で聞きづらい。チカルは片耳を押さえる。そのざわめきが届いたらしく、彼はわずかに声のボリュームを上げて言った。
「外出中ですか?」
「ええ……身内を迎えに空港に来ていて」
「そうでしたか。申し訳ありません。また掛け直します」
「いえ、大丈夫です。ご用件はなんでしょう」
「――実は先日、タビトの所属するグループのメンバーが活動を休止することになりまして……この件でマスコミや週刊誌の記者がマンション周辺に張り込んで、住人に聞き込みを行っているようです。危害を加えてくるような連中ではありませんが、すこし強引なところがありますのでくれぐれもお気をつけください」
「承知しました。なにを聞かれても余計な事は言いません」
電話の向こうのホズミは、欲しかった言葉を聞けたことに安堵する。
「話が早くて助かります。活動休止の原因は怪我なんですが、メンバー間に亀裂が生じたためだと主張する連中がメンバーの私生活についてあちこち嗅ぎまわっているらしく……こちらもほとほと困り果てておりまして」
「アイドルも大変ですね」皮肉ではなくそう言って、「怪我をされた方が早く復帰できますようお祈りしています」
「ありがとうございます。引き続きタビトをよろしくお願いいたします」
ホズミの言葉にチカルもまた丁寧に返し、通話を切る。
そのとき、突然後ろから肩を叩かれた。びくっとして反射的に肩に乗っている手首を掴む。
背後で男が呻き声を上げた。そのまま手首を返し更に捻ろうとしたが、彼の顔を見た瞬間にぴたと動きを止めて目を丸くする。
「リョウ!」
「ごめんごめん!驚かすつもりじゃなかったんだって」
「もう!私の後ろに立たないでっていつも言って、――」
「わかった、悪かったから取りあえず……手、放して……」
我に返って解放すると、リョウは苦笑して手首をさする。
「相変わらず凄い力だな」
「――あなたは」身長190センチ越えの巨漢を見上げる。「すいぶん変わったわね」
「母さんが嫌がることを全部やったらこうなった」
腕を広げ首を竦めてみせる。
分厚い胸板とド派手な柄シャツからのぞくタトゥーだらけの腕と首元。長く伸ばした髪と三つ編みにした顎鬚、そしてサングラス――この外見のせいなのか、はたまた雰囲気のせいなのか、先ほどから周囲の視線が彼の方に向いているのがわかる。そしてその視線のいくつかは自分にも注がれている。あまりに毛色が違いすぎるふたりだ、ひょっとしたら彼に絡まれているようにでも見えるのだろうか。
「日本の税関職員のみんなにも手厚い歓迎をしてもらえたよ。嬉しくて泣きそうになっちゃった」彼は鼻で笑い、「おかげでスーツケースのなかはぐちゃぐちゃ。最高の里帰りだね」
「だからスーツで来なさいって言ったのに」
「そんなの持ってないよ。首が締まる服は嫌いなんだ」
かぶりを振りながら呻いて舌を出す。
「あ、そ。この調子だと今度は警備員から歓迎のご挨拶をされそうよ。さあ、早く行きましょう」
柄シャツの袖を引っ張り、歩き出す。
リョウが免税店に寄ろうと誘ってきたが断り、まっすぐに駐車場に向かった。
「車持ってたんだ」
「まあね」
荷物を積み込んで、ふたりは黒い軽自動車に乗り込む。リョウはほとんど丸まるような状態で助手席にみっちりと収まり、苦しそうに息を吐いた。
「ちゃんとシートベルトを締めて。危ないから」
「もしかしてハンドル持つと人格が変わるタイプ?」
「ばかなことを言っていないで早くしなさいってば」
「ええ……無理じゃないこれ?」
狭い座席で身をくねらせながら一生懸命シートベルトを引っ張っているので手伝ってやり、チカルはエンジンをかける。
「そんな薄着で寒くないの?」
「寒いに決まってる」
「コートは?トランクの中?」
暖房をつけてやりながら問うと、
「ロサンゼルスは1月でも20度くらいあるから、厚手のアウター持ってないんだよ」
「そんなに暖かいんだ?」
「日本の冬がこんなに寒いこと、すっかり忘れてたな」
彼は寒空を窓越しに見上げてつぶやく。
「それも当然ね……14年ぶりだもの」
チカルの5歳年下の弟である彼は、19歳のとき8歳年上の恋人と共にアメリカへ渡った。
母と祖母の猛反対を押し切るかたちでの渡米となり、家の中は荒れに荒れた。特に母などは、家の敷居を二度と跨がせないと、心にもないことを口にするくらい怒り心頭であった。男児であるリョウが家督を継ぐものと思い込んで期待していただけにその失望は相当のものであったようだ。
「母さんとばあちゃんは元気にしてんの?」
「さあ?元気にやっているんじゃない?」
「なあに、その言い方」
愉快そうに喉の奥で笑うと、チカルもわずかに口角を上げる。
「今年の正月は帰らなかったの。電話にも出ていないし。毎日毎日しつこく電話をかけてきて、留守電に長々とお説教を残せるくらいだから心配いらないと思う」
「そりゃあ元気だわ」
ついに手を叩いて笑い出す。
「ちょっと前に友達が今の俺の写真を母さんに見せたみたいなんだけど、信じてくれなかったって言ってたな。いや、信じたくないの間違いか」
「見間違えるはずないものね。あなたの顔、母さんと瓜二つだもの……」
「でもまあ、髭が生えてる写真だったからね。目の前で髭を剃ったら、母さんはなんて言うかな?」
「――ねえ」チカルはその言葉の裏を探るかのように、すこし声のトーンを落とす。「どうしていきなり日本に?まさか直接母さんの前に姿を現して驚かせるつもりなの?」
「そんなわけないよ。あの人とはもう会わない。葬式にだって出る気もないし」
軽い口調で言い放つリョウの横でチカルは、かなしみと安堵の混ざったような、なんとも複雑な顔をする。
「このタイミングで帰ってきたのはさ……今の自分なら胸を張って姉さんに会えると思ったからだよ。事業が軌道に乗るまで日本には帰らないって決めてたんだ。でもまさか14年もかかるなんてね。気の済むまで笑ってくれていいよ」
「数年で帰ってくるだろうと思っていたのに」わずかに微笑んで、「できないとすぐにあきらめていた幼いあなたは、もういないのね」
彼は姉の横顔を真剣な眼差しで見つめた。
「ごめん」
「どうして謝るの」
彼女は困ったような顔になる。
「あの家に姉さんをひとり残してきたことをずっと謝りたかった」
チカルはかすかに首を横に振り、無意識に唇を噛む。
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