第16話

 帰宅したタビトは、部屋の美しさに思わず驚愕の声を漏らした。床掃除だけでいいと書いておいたのに、いつもどおり完璧に清掃してくれたらしい。溜め込んでいた洗濯物もすっかり片付いている。

 ありがたさと申し訳なさでいっぱいになりながら身支度を済ませると、彼はダイニングスペースに一目散――焦る指先でリングファイルを開いた。

 チカルからの返事があるのを確認するなり、胸が詰まるような奇妙な感覚がこみ上げる。一呼吸おいてからそのメッセージを、噛み締めるように読んだ。


埜石様

新年あけましておめでとうございます。本日も大変お疲れ様でした。冷え込みが厳しいので、毛布を厚めのものに変えておきました。暖かくしてゆっくりお休みください。

追伸:映画は好きです。おすすめは裏面に書きます。お気に召していただけたら幸いです。


 タビトは紙を裏返す。

 ざっと数えただけでも10本以上。こんなに紹介してくれるとは思っていなかった――ころころ転がる文字を指でなぞり、瞳を細める。

 彼は普段、全国の映画館で公開されるようなメジャーなものしか観ない。綴られている映画の題名はどれも聞いたことがないものだ。チカルが薦めてくれなければきっと知らないままだっただろう。

 タビトはさっそくスマホをポケットから取り出して動画配信サービスにアクセスし、映画名を検索する。すべて見つけ出しお気に入りリストに入れてしまうと、休日まで我慢できず、ひとつめの映画の再生ボタンをタップした。

 その翌日の撮影現場でも、タビトはスマホにかじりついている。通りがかったヤヒロがいつものようにちょっかいを出す。

「なに観てんの?」

「んー?映画」

 うわの空で返事するタビトの背中にのしかかり、彼の耳から片方のイヤホンを取って自分の耳に嵌め、スマホを覗き込む。

「うわ、グロ……。なんていうやつ?」

「ちょっと、やめて。今いいところなんだから!」

 イヤホンを取り返して耳に嵌めなおす。ヤヒロは彼の肩に顎を置いて不満そうに唇を尖らせていたが、背後から忙しなく肩を叩かれそちらに振り向いた。

「なんだよアキラ」

「ユウは?」

 アキラは眼光鋭く問う。

「知らねえよ。ホズミさんに聞けば」

「ホズミさんがおまえに聞けって。今日はタクシーで一緒に来たんでしょ?」

「違うって、ひとりだよ。あいつ遅れることホズミさんに連絡してねえのか」

「――ホズミさんに伝えてくる。ヤヒロはユウに電話してみて。さっき話し中だったけど今なら通じるかも」

「はあ?あいつまたミツキと電話で痴話喧嘩してんじゃねえだろうな」

 ぶつぶつ言いながらスマホの画面をスワイプし耳に当てる。それからすぐに「話し中」忌々しげに吐き捨てて通話を切ると、アキラを睨んだ。

「野放しにしてるからだぞ。ほんとはとっくに勘づいてたんだろ、あいつにやっかいな女がついてまわってること。――甘やかしやがって」

「相手がミツキってわかってたらとめてたよ」

「ミツキだろうが誰だろうが関係ねえよ。俺たちはいま一番大事な時期なんだ。特定の女に執着してうつつ抜かしてる場合じゃねえだろうが」

 タビトはふたりを横目に溜息をつく。イヤホンをしているからなにを言っているのか分からないが、いつもの口喧嘩だろうと呑気に思っていた。彼らがこうして言い合いをするのは日常茶飯事なのだ。

「みんなー、撮影始まるって」

 セナが遠くから大きな声でこちらに呼びかける。タビトは近くのスタッフに肩を叩かれ、停止ボタンをタップした。耳からイヤホンを外し、傍に合った手鏡を覗き込んでメイクが崩れていないかをチェックすると、パイプ椅子から立ち上がる。

 それを横目に捉えたヤヒロが声を掛けた。

「なあ、おまえのところにユウから連絡きてねえよな」

「きてないよ。どうしたの?」

 タビトは目を丸くして答える。

「遅刻。電話も通じねえし」

 そのとき、顔面蒼白のホズミが髪を乱しながら3人の元へ駆け寄ってきた。

「なーに?ホズミさん……めずらしいじゃんそんなに焦って」

 問うたタビトは、近づいてきた彼の強張った表情から尋常ではない気配を察し、からかいの笑みを即座に消した。膝に両手をついて肩で息をしているホズミは苦しみに歪んだ顔を3人に向ける。そして、切らした息の合間に言った。

「ユウがマンションの非常階段から落ちて、救急車で運ばれたそうだ」

 3人が絶句するなか、絞り出すように言葉を続ける。

「幸い命に別状はないようだが……入院することになるかもしれない。俺はこれから搬送先に行ってくる。エディをよこすよう会社に頼んだから、午後からのスケジュールは彼の指示を仰いでくれ。ここでの撮影は、ユウ抜きで頼んである。――アキラ……エディが来るまでのあいだ、頼んだぞ」

 無言で頷くアキラを見届けると、ホズミは忙しなくスタジオを出て行った。残された彼らが顔を見合わせ言葉を探していると、スタジオの奥からセナがのんびりとやってきて、その異様な気配に気づくなり小首を傾げる。

「どしたの?みんなして怖い顔しちゃってさ」

「ユウがマンションの非常階段から落ちた」

 口早に告げたヤヒロが、言葉にしてやっと実感したのか表情を歪め唇を噛む。

「落ちたって……」

 そうつぶやいたきり声が出ないらしく、セナは空気を噛むばかりだ。その目に薄く涙が溜まっているのを見たタビトは、彼を無言で抱き寄せた。

「ホズミさんが病院に向かってる。命に別条はないって……」アキラは視線を床に落とし、細い声で続ける。「撮影はユウ抜き。午後はエディが一緒にいてくれるから」

 セナは反応しない。タビトは腕の中の彼の髪に頬を押し付けながらつぶやいた。

「非常階段なんて……なんでそんなところにいたんだろう」

「知るかよ」

 ヤヒロは言い残し背を向け、撮影のセットの方へ行ってしまう。ADと話し込んでいたフォトプロデューサーが彼を見るなり声を掛け、なにやら難しい顔で捲し立てている。

「ミツキと一緒にいたのかも」

 表情を失くしたままのセナが誰にともなく口にすると、彼の方に振り向いたアキラが言葉を返す。

「いたとしても今回の件に関わっているとは限らないよ」

「悠長に構えてるけど、それが最善の方法だって今も思ってるの?」タビトの腕を解いたセナがアキラに詰め寄る。「もしこの件にミツキが絡んでるとしたら……ユウが怪我したのは、あの子をウル・ラドから遠ざけようとしなかったアキラのせいだからね」

「――セナ……」

「最近のユウがおかしかったことに気づいてた?あいつ、ぜんぜん食べないし寝ないし、ずっとミツキ中心の生活してたんだよ?」

 アキラの胸倉を掴んで激しく揺さぶり、怒りに目を赤く染めて叫ぶ。

「ユウはミツキに近づくべきじゃなかった。近づけさせちゃいけなかった!やっぱりあのときなんとしてでも社長を説得して、ミツキを出入り禁止にするべきだったんだ!」

 タビトが間に入り、セナを引きはがす。

「セナ……!いい加減にしろって!」

 ぎらぎらと光る充血した瞳がタビトを見上げる。

「なんにも知らないで……知ろうともしないで、ただヘラヘラしてた奴が偉そうにしないでよ」セナは彼にそう吐き捨てると、アキラを睨む。「メンバーのひとりも守れないでなにがリーダーなの?」

「おいおまえら!こんなときになに揉めてんだ」

 タビトを振り払うと、彼は乱れた襟を正しながらそちらに振り向く。ヤヒロがしかめっ面で手招きしている。

「撮影始まるぞ!」

「いま行く」

 言葉を呑んで押し黙っているふたりの代わりにアキラが返事する。セナはもうタビトたちの方を見ることはない。スタジオセットの方へつま先を向けた彼の背中の後に、固く唇を引き結んだふたりが続いた。

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