第12話

 ただいま。

 誰もいない空間につぶやいて、タビトは玄関の灯りをつける。いつものようにコートと荷物を片づけ、重い体を引きずるようにして部屋に上がった。

 彼は緩慢な動作で服を脱ぐ。用意されているバスタオルや部屋着、カラになっているランドリーバスケットを見て、あの人が今日も来てくれたことを知る。

 熱いシャワーを頭から浴びていると、体の疲れが実感として湧いてきた。髪を洗おうとしたが、彼は大理石の壁に手をつき項垂れたまま動けなくなってしまう。

 眠気でぼんやりとしている頭で、今日のスケジュールの忙しなさを思い起こす。

 ――訪れた長野県では最高の時間を過ごした。北八ヶ岳のロープウェイから眺めた雪景色や、凍てつく大地に眠る幻想的な御射鹿池みしゃかいけ……実に壮観であったが、過密スケジュールによる疲れが癒えていないなかでの遠方ロケは、体への負担が大きいことも事実だった。

 鏡に映る顔は熱い湯を浴びているにも関わらず紙のように白く、目の下には薄く隈が浮いている。

 移動時間にゆっくり休むことができればいいのだが、車のなかで眠るとなぜか高確率で悪夢を見るため逆に疲れてしまう。今日もうとうとしていたら幻の痛みにうなされた。ライブの途中、ステージに突然大きな穴が開いて奈落に落ちる夢を見たのだ。

 上まぶたと下まぶたが今にもくっついてしまいそうになりながら、彼は残る力を振り絞るようにして髪と体を洗った。

 バスルームを出たときにはもう体力は限界に達している。やっとの思いでドライヤーをかけて、歯を磨いた。日課のプロテインを飲む気力すらない。

 スリッパの踵をずるずると引きずりリビングに入った彼の目はほとんど閉じている。

 寝室に入ると、そこにはきっちりと整えられたベッドがあり、静寂のなかで彼を待っていた。吸い寄せられるように近づいて、布団をめくりもせずそのまま倒れ込む。

 やわらかさの上でしばらく脱力したあと、ようやくのそのそと掛け布団の下に潜り、彼は清潔な匂いに包まれる。皺なく張られたシーツ、頭をふんわりと包み込む枕、空気をたっぷり含んだ掛け布団――至福の瞬間を味わいながら、大きく息を吸い込む。

 さあ、寝よう……そう思ったところで彼は閉じていた瞳をぼんやり開け、暗闇を瞳に映した。

 やがてむくりと身を起こしリビングに戻ると、ダイニングテーブルの灯りをつける。そこにはいつものリングファイルに加え、名刺や企業のリーフレットが置いてあった。

 彼はすこし緊張した面持ちで椅子に座り、ファイルを手元に引き寄せる。細かく書き込まれた作業内容よりも先に、メッセージ欄を読んだ。

 前回と同じことが書いてある。あの猫のイラストは……ない。

 事務的な内容を何度も読み返してからそっとファイルを閉じると、大きく息を吐いて肩を落とした。

 もう一度表紙を開く。ころころしたかわいらしい文字をぼんやりと目で追う。

 最後まで読んで、再びの溜息と共にそれを押し遣り、彼はテーブルに突っ伏した。



 藍色のカーテンの隙間からこぼれてくる光のまぶしさに、チカルは大きく寝返りを打つ。

 顔の表面が冷えているのがわかる。暖房をつけたかったがリモコンまで手を伸ばす気になれない。

 シャンプーの匂いがしみ込んだ枕に顔を半分埋め、布団のなかで丸まる。と、そこで背中に温かな気配を感じた。ゆっくりと上体を起こして振り向くと、Tシャツを着た大きな体がこちらに背中を向けて横たわっている。いつもは別々の部屋で寝ているのに、なぜここに?

 ――ああ、そうだった……彼女はロングTシャツ一枚とショーツしか身に着けていないことを確認し、昨夜のことを思い出す。

 中華料理店から帰宅してすぐに押し倒され、玄関、バスルーム、ベッドと移動する度に交わり、気絶するように眠ったのだった。自分で服を身に着けた記憶がないし、これは彼が着せてくれたのだろう。

 彼女は半分寝ぼけたままベッドを抜け出した。暖房をつけ、ナイトテーブルに置かれていた眼鏡を掛けると、床に落ちているくたびれたスウェットパンツを拾いそろそろと両足を通す。

 上着を羽織って、冷えた廊下に出た。リビングのドアを開けて壁の時計を見れば、まだ8時だ。

 彼女はいつものように水を一杯飲むと、キッチンカウンターの上にあるスマホを取る。バッグに入れたままになっているはずのこれがここにあるということは――シュンヤが勝手に持ち出したのだろう。

 バッグに戻さず、わざわざここに置いておく意味。彼の思惑は手に取るようにわかる。監視しているぞ、という無言のメッセージだ。男の利用者に色目を使うのではないかと勘繰っているのかもしれない。なんて愚かな人だ。自分が不貞を働いているからといって、相手もそれをするとは限らないのに。

 彼はパスワードを必死で解き、連絡先やメッセージを一通り見て、無駄骨だったと歯噛みしたに違いない。連絡先に登録した名はほとんどが苗字だけで性別の判断はつかないだろうし、メッセンジャーアプリでやりとりしているのはほとんどが仕事関係。その内容も事務的なものだ。プライベートで連絡を取り合っているのも親族や共通の友人のみで、近況の報告や他愛のない話しかしていない。

 ロックを解除されたところで、見られて困るようなものはなにもなかった。それでもチカルはパスワードを今までよりもっと複雑なものに変更した。

 それからようやく、届いている便りを確認する。メールマガジンが数件。今しがた通知されたメッセージはホズミからだ。

 メルマガには目もくれず、すぐさまメッセージを開いた。1月と2月のスケジュールで変更点があるらしく、新しいファイルが添付されている。彼女はファイルを開きながら玄関に向かい、以前もらった紙のスケジュール表を仕事用のトートバッグから取り出した。

 スマホのスケジュールと見比べた彼女の表情が曇る。どうやらあの青年は本当に売れっ子らしい――3日と6日に入っていた休暇の文字が消えていた。

 元日は変わらず休みとなっているが、今夜はカウントダウンライブだ。大勢のアーティストやアイドルが参加する大規模な公演で、終演時間は28時らしい。帰宅するのは明け方になってしまうだろう。

 元日を丸一日休息にあてるとしても、この日だけで疲れが完全に癒えるとは思えない。疲労が蓄積したまま翌日2日から9日まで働きづめになるということか……

 こんなにハードな予定を目の当たりにすると、いくら若いとはいえ体調を崩さないか心配になる。掃除はおろか洗濯機を回す余裕もないだろうし、部屋は荒れ放題だろう。

 こちらの仕事始めは6日となっているが、前倒しの話を持ち掛けてみようか。どうせこれといった予定もないのだから。

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