第11話

「ねえ、さっき……マスクを着けていたのによくわかったわね」

「わかるに決まってんじゃん。何年の付き合いだと思ってんだよ」

 天井に向かって紫煙を吐き出しながら、彼はあきれたような声を出す。

 ふたりは同郷出身の幼馴染だ。

 大学進学のため上京したシュンヤが都市銀行――いわゆるメガバンクに就職したことを期にチカルを田舎から連れ出した。

 ひとつ屋根の下で生活を始めて15年。赤ん坊の頃から交流があるため、その仲は40年近く続いている。

「俺らが東京に出てきて来年で16年か」

 シュンヤは砂肝を頬張ると、ビールで流し込んでから続けた。

「お互い歳取ったよなあ」

「シュンヤはすっかり東京の人ね。垢抜けたというか……すごく変わった」

「おまえが変わらなすぎなんだよ」

 いつの間にか店内は満員御礼だ。先ほどの女性店員が忙しなくテーブルのあいだを行き来している。身をひるがえすたび、ひとつに束ねた髪が背中で揺れる。

 その後ろ姿を目で追っていたシュンヤは、やっと視線をチカルに戻して言った。

「あ、白髪」

「ん?」彼女は視線の先を追って自分の前髪に触れる。「この辺りのやつ?今朝見つけたのに見失って」

「よく見ると白いのが増えてきたな。明るい色に染めれば?」

 その言葉に、彼女は左右に首を振る。

「いちど染めると維持するのが面倒だし、それに……お金が掛かるから」

「そんなこと言ってるからダメなんだって。その眼鏡だってさあ、10年くらい前に買ったやつだろ?身の回りのことに無頓着すぎんだよ。化粧も碌にしないし……髪型も上京したての頃とたいして変わらないじゃん」

 これみよがしに溜息をついてみせ、眉間に皺を寄せたまま彼は続ける。

「夏なんかいっつもジーンズと無地のTシャツだしさ。あのイヤリングだって――ほら、誕生日に贈ったあれだよ、どこかにしまい込んでるんだろ。少しは女らしい服装をしてくれるかなって期待してたのに」

「それは残念でした」くすりと笑って小首を傾げ、彼を覗き込むように見る。「これからは勝手に期待しない方がいいわよ」

「俺はあきらめないぞ」

「もう……。執念深いんだから……」

「安っぽい格好の女と歩きたくねえんだよ。おまえと一緒にいるところを同僚に見つかったらと思うと恥ずかしくて」

「失礼な人ね」

 そう言うも、気分を害した様子はない。彼にこういう言葉を浴びせかけられるのには慣れている。

 さきほど注文したビールが運ばれてくると、彼女は冷えているジョッキ片手に、皿の上へ再び箸を伸ばす。シュンヤはテーブルに片肘をつき、飲みかけのぬるいビールを一口飲んで唇を尖らせた。

「チカルは俺とデートしたくないの?」

「……」

「なんでそこで黙るんだよ。傷つくだろ」

「あなたが着てほしい服が私に似合うとは限らないでしょ。私だって、好みじゃない服は着たくないし」

「本当に可愛げがねえなあ……」

「なくてごめんなさいね」

「せめてエステにでも通えばいいのに。金ならあるんだからさ」

「あなたは余裕があるでしょうけど私は毎月ぎりぎりの生活だもの……通うなんて無理よ。貯金もしなくちゃならないし」

「家賃と光熱費の折半にこだわるのをやめたらいいじゃん。俺が全部払うって言ってんだろ。それがどうしても嫌ならエステ代払ってやるよ」

 チカルは答えない。そんな彼女を前に肩を竦め、シュンヤは溜息交じりに訴える。

「わかってくれよチカル……男は、自分の女にいつまでも若くてキレイでいてほしいものなんだよ」

「そんなものなの?」

「そんなもんだよ」

「そう……」

 反論せず唇をつぐんだため説き伏せたと見たのか、シュンヤは勝ち誇った表情になる。手に持っていたジョッキの中身を呷ると、新しいビールに口を付けた。

「ところで仕事の方はどうなんだ?」

「おかげさまで順調よ」

「男の一人暮らしの家を任されるのって初めてだよな。どんな仕事してる奴?」

「ご利用者様のプライバシーに関することはお話しできません」

 きっぱりと言い放つ。

「そう言われるとますます気になるんだけど?」

「だめ。あきらめて」

「じゃあ職業はいいよ。どんな奴なの?派手系?地味系?」

「ああ……しつこい」

 彼女は心底うんざりといった様子で箸を持つ手を左右に振る。

「ずいぶん冷たくあしらうじゃん。……やましいことでもあるのかよ」

「あきれた。あるわけないじゃないの」

 溜息をつくチカルに、シュンヤはなおも食い下がる。

「仕事とはいえ自分の女が知らない男の家に行ってるんだぞ。もしなにかあったらって考えるのは恋人として当然じゃねえか」

「彼のことを知ったところでどうするのよ……」

「把握してるのとしてないのとじゃ全然違うだろ。おまえのこと心配してんだよ、俺は」

「余計なお世話。ご利用者様とのあいだに問題が起これば会社に話すから大丈夫よ」

 テーブルに視線を落とした彼女は箸を置き、水滴がしたたるビールジョッキを乱暴に呷った。

「利用者の情報なんて他の誰にも言ったりしねえって。どんな奴なのかってことくらい教えておいてくれてもいいだろ?おまえに関することは知っておきたいんだ」

「さっきから……なにをそんなに怯えているの?」

 シュンヤはしかめっ面を崩し、からからと笑った。

「おまえには怯えているように見えるか」

「私には私の生活があるし、ルールがあるの。あまり干渉してこないで」

 彼はおもむろにチカルに向かって腕を伸ばした。テーブル越し、彼女の顎をぐいと掬いあげると、その双眸を深々と覗き込む。

「いいか?チカル……俺に対して隠し事は許さない」彼は指先に力を込めつつ、声を低めた。「――妙なマネしたらすぐに辞めさせるからな」

 辞めさせる?

 その言葉を胸の奥で繰り返した彼女は、燃えるような瞳で彼を見つめ返す。

「それはあなたが決めることじゃないでしょ……私の立場を無視するつもりなの?」

 この問いかけに関して、彼は明確に答えなかった。

「ガタガタ抜かしてねえで教えろよ」

 ここまでくると絶対に引き下がらないと悟ったチカルは、大きく溜息をついて彼の手を振りはらった。背中を丸め、目元を手で覆う。

 周囲の客たちの陽気な騒ぎ声が、ふたりの間に落ちた静寂を包み込む。頑なな沈黙が続くに伴い、シュンヤの怒りのボルテージがぐんぐん上がっていくのを肌で感じる。

 彼女はついに観念し、この不毛な会話を終わらせるために言った。

「――まじめな社会人……普通の男の子よ。私なんて眼中にない。あなたが気を揉むことなんてなにもないわ」

「男の子?……ってことは若いんだ」

 ふうん、と気の抜けたような声を出したシュンヤは目をうっすらと細める。もう詮索されたくないチカルは目を合わせようとせず、ただ黙々と食事を続けた。意外にも、彼はそれ以上訊いてこなかった。

 会計して店を出ると、外は更に冷え込んでいる。トートバッグに押し込んでいたマフラーを出して首に巻きつけていると、シュンヤが言った。

「明日出張って言ってたじゃん。あれなくなったから」

「そうなの。わかった」

 振り向いたチカルの肩を抱いて引き寄せ、彼はぴたりと体をくっつけたまま歩き出す。

「ちょっと……なあに?どうしたの……」

 突然のことで足がもつれる。状況がつかめないチカルは困惑顔でシュンヤを見上げた。彼は黙って見つめ返し、前髪にくちづける。驚きすぎたチカルは声も出ない。

 痛いくらいの力で腕の中に包まれたまま駅までの道を歩いていく。彼のスーツからは、嗅ぎ慣れた煙草のかおりがした。普段は歩く距離すら取りたがるシュンヤがいきなりこんな絡み方をしてくるなんて。これは本当に珍しいことだ。

 困惑したまま帰宅すると、玄関に入るなり深くくちづけられた。唇に捩じ込んだ舌先でざらりと歯列をなぞったかと思うと、噛み締めた歯と歯のあいだを強引に抉じ開けてくる。逃げる舌を絡め取られ呼吸を奪われた彼女は為すすべもなく、しびれるような快楽に屈してしまう。

 ここまで性急に求めてくるのはきっと酒のせいだ。しかしジョッキ2杯とレモンサワー1杯くらいで酔うほど、酒が弱い男だっただろうか?取り留めもなく思考を巡らせているチカルをよそに、シュンヤは荒々しくジャケットを脱ぎ廊下に放り投げる。

 固い床に押し倒され、すぐさまマフラーが乱暴な手つきで解かれた。服のなかに侵入してきた冷たい手が肌を滑る。チカルは仰向けで天井を見つめ、されるがままだ。困惑するのにも疲れて、彼からの愛撫を素直に受け入れながら、さっき食べた水餃子や砂肝のことを考えていた。

 頭のなかで駅から店までの道をなぞる。次は一人で行こうと決め、あの赤く美しい刺繍布を思い起こしつつまぶたを閉じた。

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