第10話

「チカル!」

 振り向くとシュンヤが立っている。彼は小走りで近づいてくると、笑顔を浮かべながら声を弾ませた。

「買い物?今日出掛けるって言ってたっけ」

「仕事帰りよ」

「なんだ。この近くだったのか」

 チカルは頷き、「こんなところで会うなんて。もしかして……前に話してたバンクミーティングって今日だったの?」さりげなく話題を変え、これ以上詮索されることを逃れる。

「まあね。直帰するって言ってあるから一緒に帰ろう」

 彼らは連れ立って歩き出す。

 シュンヤは基本的にチカルの少し先を行く。だが今日は歩幅を合わせて歩いてくれていた。それをチカルは嬉しく思い、同時に悲しくも思う。一緒に並んで歩いたり歩かなかったりするのは単なる気まぐれではなく、明確な理由があることをわかっていたからだ。

 街灯の光に白い息を放ち、チカルが静かに問う。

「夕飯どこで買って帰ろうか」

「腹減ったから店で食っていこうぜ」

 思っていたのと違う答えが返ってきたことに驚いて、思わずシュンヤを見る。その視線に気づいた彼は不思議そうな顔をしたが、言葉を続けた。

「この辺で旨い店知ってる?」

 声を詰まらせたままのチカルが首を横に振るのを見て不満そうに口を曲げ、彼は宙を見つめ記憶を辿る。

「――せっかく品川に来たんだから夜景の見えるレストランで食事したいとこだけど」

 チカルを上から下まで舐めるように見て、

「おまえがそんな格好じゃ入れる店も限られてるし……ハンバーガー、牛丼屋、居酒屋……あとはラーメンくらいか。いまいちそういう気分じゃないな」

 顎を撫でつつ独り言ちてからのち、はたと思い出したように目を開いた。

「中華にしようぜ。最近見つけて気に入ってる店が恵比寿駅の近くにあるんだ。いいだろ?」

「もちろん」

 チカルがマスク越しにほほえんで答えると、彼も無邪気に笑う。

「狭くて汚ねえ店だけど、旨いから期待してて」

 そう言って案内された店は、チカルが描いていたイメージよりもっと薄汚れていた。

 大通りから外れ細い道に入った先にあるそこは、落ち着いた雰囲気の高級住宅に囲まれ異彩を放っている。薄暗い電灯に照らされている古ぼけた看板は色褪せており、軒先に置かれた鉢植えの花木は半分枯れていた。

 サビついた丸椅子の上に乗った発泡スチロールには土が敷き詰められ、そのなかで背の低い草が寒さにも負けず青々と茂っている。その横に傘立てと、横倒しになっている蓋のない薬缶。背の高い青磁のツボの中には煙草の吸い殻が投げ込まれ、水は茶色く濁っていた。

 かつてはテイクアウトもやっていたのだろうか。入口の横に小窓があるがガムテープで雑に塞がれている。営業中の札が下がっていなければ潰れていると思うかもしれない……やっているとわかっていても、一人で入るのにはなかなか勇気のいる店構えである。

 ガラス部分の下の方に蜘蛛の巣のような罅が入ったままになっている引き戸を開けると、香辛料の香りと油の重たいにおい、そしてかすかな煙草のけむりが表に流れ出てきた。

 客がほとんどいない店内はほんのりとした赤い光で満たされている。

 チカルは視線だけで辺りを見渡した。天井にいくつもぶら下がっているペンダントライトのシェードは布製で、ひとつひとつに中国刺繍が施されている。その深紅の布が店内を薄赤く染めているのだった。

 彼女は頭上に浮かぶそれをうっとりと見つめた。幻想的な美しさに、別世界に迷い込んだような不思議な気持ちになる。

 しかしいい雰囲気なのはそれのみで、店内はお世辞にもきれいとはいえない。漆喰の壁は薄汚れ、そこにずらりと貼られたメニューの紙はところどころ剝がれかけている。招き猫や見たことのないマスコットキャラクターがごちゃごちゃと並べられたレジカウンターには、輪ゴムで束ねた注文票の束が乱雑に積みあげられていた。

「いらっしゃい」

 澄んだ声と共に、間仕切りの向こうからすらりとした女が出てくる。まだ20代半ばといったところか、艶やかな黒髪と丸く愛らしい瞳をもつ可憐な人である。

 彼女は、盆の上にコップをふたつ用意しウォーターピッチャーから水を注ぎながら「お好きな席にどうぞ」と抑揚のない声で言う。厨房では初老の夫妻が忙しなく立ちまわり、がたいのいい若い男が鉄の大鍋を振っているのが見えた。

 彼らは店内奥に進み、隅の席に座った。朱色のテーブルは油っぽく、ところどころに煙草で焦がした跡がある。ビニールレザーの張られたパイプ椅子もかなり年季が入っており、座るとぐらついて落ち着かない。

 どうやら本格的な中華料理店らしく、メニューは漢字の羅列だ。どんな料理なのかいまいちわかっていないチカルに代わり、シュンヤが煙草片手に慣れた様子で注文する。

 まずはビールで乾杯。ザーサイをつまみながら飲んでいると、料理はすぐに運ばれてきた。甘辛いタレのかかった雲吞わんたんさわらの水餃子、砂肝の冷菜、牛肉と青野菜の唐辛子煮込みなどが次々と並べられ、テーブルが一気に賑やかになる。

「水餃子は黒酢で食べるのがおすすめ」

 シュンヤに言われた通り黒酢を小皿に入れ、どっさりと飾り気なく盛られた水餃子に箸を伸ばした。もっちりとした皮と、舌触りがよく風味のある具……くちいっぱいに頬張るチカルを見て、シュンヤは瞳を細める。

「昔っからおまえはほんとに旨そうに食うのな」

 食べるのに夢中になっている彼女の唇にぺーパーナプキンを押し当てる。顎にまでこぼれそうだったタレを拭ってやり、彼は愉快そうに言った。

「ゆっくり食えよ。取らないから」

 チカルはシュンヤの手からナプキンを取ると自分で口元を拭い、ほんのり染まっている頬を手の甲で冷やしながらジョッキを傾ける。全部飲み干してしまうと、店員を呼んでビールを2杯追加注文した。

「酒がそんなに進んでるってことは……ここの料理、相当気に入ったな?」

 彼が笑う。頷いたチカルもつられたように笑った。ハンカチで鼻の頭の汗を拭った彼女は、手でぱたぱたと顔を扇ぎつつ言う。

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