第9話

 タビトの部屋に入ったチカルは、違和感を覚えた。

 玄関マットの上のスリッパがきちんと揃えられている。前回部屋を出たときのままだ。

 もしや一昨日から帰宅していないのだろうか……彼女は腕いっぱいに抱えていた荷物やクリーニング済みの洋服を廊下に下ろし、トートバッグからスケジュール表を取り出す。

 昨日は午後出社で新曲の振り付け練習とテレビ収録。今日は午前出社、長野にて旅番組ロケとなっている。続けてこの先の予定にも目を通してみれば――とんでもない忙しさだ。

 明日は一日かけて正月特番の収録、大晦日はカウントダウンライブが開催されるらしい。元旦は休みになっているが、翌日からはもう仕事である。帰ってこられない日もあるということをホズミから聞いたときは半信半疑であったが、これでは帰宅しないで会社近くにでも泊まった方が楽かもしれない。

 チカルはスケジュール表を畳んでバッグに戻すと、エプロンを取り出した。

 コンシェルジュから預かった荷物の中には持ち手のついたクーラーボックスもあり、中にはエナジードリンクが数本入っていた。仕事関係の差し入れのようで、ドリンクの販売会社の名刺が添えられている。

 この他にも、宅配伝票が貼られていないものが数点ある。仕事先でもらったものの、訳あって持ち帰れなかったものらしい。こういうものがある場合、後日スタッフがまとめてマンションに届けているのだと聞いた。

 それぞれの品物と一緒に入っていた名刺やリーフレットなどを集め、まとめてテーブルの上に置いておく。飲み物は冷やしておくように指示されていたので、チカルは初めてこの家の冷蔵庫を開けた。

 入っているのは開封済みの牛乳やヨーグルトのみで、庫内はがらんとしている。

 以前、キッチンの収納棚に砂糖や塩、醤油、みりん、料理酒などがすべて使いかけの状態でしまってあるのを見かけた。自炊しているのだろうと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。

 彼に課せられた大量の仕事――あの怒涛のスケジュールが頭をよぎる。あんな生活スタイルが一年中続くなら、特別な調理なしでも食べられるものしか入っていないのにも納得がいく。

 初めは健康のために自炊していたかもしれないし、または恋人が作ってくれたのかもしれない。いつデビューしたのかも、いつからこんな生活をしているのかも知らないが、得ると同時に失ったものも多くあるのだろう。俗にいう平凡な生活とはかけ離れた人生で、彼はいったい何を思うのかと彼女は思いを巡らせるが、到底理解できるものではなかった。

 チカルはどこか浮かない顔のまま冷蔵庫にエナジードリンクを入れ、他の荷物を片づけてから寝室に入る。

 掛け布団が床に半分落ちていた。どうやら帰ってきているようで、ほっと息を吐く。

 シーツ類をはがすと、ほのかに甘い香りが立ちのぼってチカルの鼻をくすぐった。香水をつける習慣があるらしく、シンプルなドレッサーには名だたるハイブランドのそれがいくつも並んでいる。一番手前に、女性ものと思しき薄いピンクのボトルが置いてあった。彼女の愛用品だろうか?アイドルである彼もステージを降りれば、どこにでもいる22歳の若者なのだと思うと急に親近感が湧く。

 タビトの生活の片鱗をそこかしこに感じながら、彼女は黙々と作業を続けた。

 洗濯と乾燥が終わるまでのあいだに大量の郵便物を仕訳けし指定された通りレターボックスに入れる。クリーニングから戻ってきた衣類は、ビニールカバーをすべて取ってクローゼットにしまった。

 バスルームやトイレ、洗面台といった水回りを掃除し、交換時期がきている浄水器のカートリッジも交換しておく。機械のように正確な動きで掃除と洗濯をこなし、最後に補充の必要があるものがないか確認して――今日の業務は終了だ。

 作業報告書を細かく書き込んで、例のメッセージ欄にはいつもの定型文を添えた。

 もう余計なことはしない。契約が長続きしなくても、単発の仕事はいくらでも入ってくるのだ。それでいいじゃないか……突如として胸に込み上げた投げやりな思いに、心が荒む。

 溜息を堪えてテーブルの上のリングファイルを開いたチカルの手が、ぴたりと止まった。前回の報告書を目を丸くしたまま見つめる。

 自分の書いた下手なクマのイラストつきメッセージの下に、「お疲れ様です。いつもありがとうございます」と書いてある。その横にはかわいらしいキツネのイラストが描かれていた。

 顔合わせをしたあの日、別れ際にほのかな笑顔を向けてくれたときの彼をふいに思い出した。そうか、何かに似ていると思ったが、笑うとキツネに似ているのだ。

 マスクの下で下唇をきつく噛み締め、先ほど書いた報告書を綴じる。なにか気の利いた事を書き残したい気持ちがちらと顔をのぞかせていたが結局それをせず、彼女は部屋を出た。

 あんなに短いメッセージにも返信をしてくれた利用者は彼が初めてだ。さすがはアイドル――相手に好印象を残すやり方をよく知っている。

 外し忘れたままのマスクの下で、彼女はまだ唇を噛んでいる。コートのポケットに入れた冷たい手で自分の家の鍵をしきりにいじりながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。

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