第8話

 チカルが2回目の仕事を終えて帰ったその夜、21時半すぎ。

 ドアが施錠されたことを確認し灯りをつけたタビトは、自分が今朝雑に脱ぎ捨てていったスリッパが玄関マットの上に揃えて置いてあることにまず気がついた。

 しまうのが億劫で出しっぱなしになっていた靴やサンダルがない。シューズクロークを開けれてみれば、想像した通り――大量の靴類が、色と種類別にきちんと収納されている。長らく空っぽの状態で放置されていたリードディフューザーも、新しいものに変えられていた。

 これは海外ブランドの商品で、六本木にある実店舗かオンラインストアでしか購入できない。それを伝えたとき、神妙な面持ちで頷いていたが……どうやらすぐに手配してくれたらしい。

 仕事が早い人だ。ホズミと共通するものを感じつつ、ポールハンガーに鞄やコートを掛ける。

 バスルームへ直行して一日の汚れを落とした彼はまたもや衝撃を受けた。

 ――部屋着が用意されている。

 これは本当にありがたい。いつも準備しておくのを忘れ、今日のように寒い日はタオル一枚を体に巻きつけて震えながらクローゼットまで行っているのだ。

 チカルの心遣いに感謝しながらバスタオルに顔を埋める。天日干ししたようにふかふかでいい香りがする。

 彼は思わず、洗濯洗剤と柔軟剤が入っている洗面台下の棚をチェックした。柔軟剤を変えたのかと思ったのだがしかし、以前と同じものである。自分で洗濯してもこうはならない。いい加減な分量で入れていたのが悪かったのか、それともなにかコツがあるのだろうか。

 感動冷めやらぬまスキンケアを済ませ、髪を乾かし……そうこうしているうちに、時計の針は23時を指している。

 帰宅時に感じていた疲労感などすっかり忘れた彼は、非常に気分よくリビングに入った。

 ペンダントライトの暖色がふわりと辺りを照らすと、チカルが置いていったリングファイルがダイニングテーブルの上に置いてあるのが見える。早く読みたかったが、まずは日課のプロテインタイムだ。

 シェイカー片手にスマホをチェックし、各所に返信するとようやく人心地がついた。そうして彼はようやく、本日いちばんのお楽しみ――作業報告書が挟んであるファイルを開いた。

 びっしりと書かれた内容に対し胸中で感嘆の声をあげながら、じっくり目を通していく。彼女の書く文字はころころしていて、ずいぶんとかわいらしい。ふーっと息を吹きかけたら紙面を転がっていきそうだ。

 締めの部分には「ご利用者様へのメッセージ」の欄があり、「本日もお疲れさまでした。次回もよろしくお願いいたします」と書かれていた。那南城とサインしてあるその横に、お世辞にも上手いとはいえないイラストが小さく添えてある。

「猫……?」

 眉根を寄せてつぶやく。クマのようにも見えるけれども、たぶん猫だ。目つきが悪いが、愛嬌がありなんとも憎めない顔である。どことなく彼女に似ている気がして、思わず笑ってしまった。堅い文面のあとに描いてあるのもなかなかシュールだ。

 あとから描き足したのだろうか……文字はしっかりと書き込まれているにも関わらずイラストの線は薄く頼りなげで、明らかに筆圧が違うように見える。

 彼は手にした飲み物を口に運ぶのも忘れて、雨だれのように落ちている文字とイラストを眺めた。触れたら切れるような鋭いオーラを放ってきたあの人物がこんなにも愛らしい字と絵を書くだなんて、にわかには信じがたい。意外といったら失礼だが、それが正直なところだ。

(……初めて会ったとき、一度も笑ってくれなかった)

 心の底を見透かしてくるようなあの瞳――

 彼女を目の当たりにした瞬間、文字通り頭が真っ白になった。あんな感覚は味わったことがない。

 込み上げてくる感情に苦しくなった胸を開き、彼はプロテインを一気に飲み干した。

 いいかげん、もう眠らないといけない時間だ。そうわかっていたが、チカルに似ている猫と見つめ合ったまま、なかなか目を離せないでいる。

 そんな彼を笑うように、スマホが立て続けに音を立てた。それを合図としたように顔をあげて、眉間に入った力をほどく。

 シェイカーを置いたタビトは、文房具が入っているリビングラックの引き出しを漁りはじめた。色とりどりのボールペンを手に戻ってくると、開いたファイルを前にして座る。

 チカルの文字をもう一度見つめて、彼はそっと微笑んだ。そして、メッセージ欄の余白にペン先を下ろした。

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