第7話

 今回新しく担当することになった「埜石タビト」という青年はアイドルだという。家事代行の仕事を始めて約8年、芸能人宅を任されたのは初めてだ。

 派遣されることが決まったとき、芸能界に疎いチカルは彼の名も、ウル・ラドというグループ名も知らなかった。

 22歳という若さで品川区のタワーマンションに住み、決して安くはない家事代行サービスを頼めるほど金銭に余裕があるのかと驚いたが、どうやら事務所が全額支払うらしい。大事にされているのだろうと推測すると同時に、周囲に甘やかされた人間特有の天真爛漫ぶりに悩まされるかもしれないとチカルは思った。

 彼女にとって芸能人は、自分とは生きる世界が違う未知の人間である。市井の民にはとても理解できないモラルや価値観を持っているかもしれないと考えると、少し気が重かった。

 そんな気持ちのまま迎えた業務初日、どんな男なのかと身構えながら埜石やいし宅に訪問したわけだが――現れたのは人の好さそうな青年。圧倒的な存在感のある、もっと言ってしまえば威圧的ですらあるような姿を想像していたため思わず拍子抜けしてしまった。

 一見どこにでもいる好青年だが、よくよく見ればアイドルというのはやはり細かい部分までよく磨かれているものだ。

 艶のある豊かな黒髪をセンターで分け、襟足はすっきり整えられている。すらと伸びた首と、白く輝くうなじがまぶしい。

 きりりとした眉の下でまばたく、美しい切れ長の目……真夜中を思わせるその虹彩は細かい光を散らしてきらめいていた。左目の涙袋にこぼれた小さなほくろは、すこしさみしそうな印象を見るものに与えてくる。忙しくしていたのかわずかに上気した頬は剝きたての茹で卵のようにつるつるで、どこを見ても“新しい”といった感じだ。

 彼はとても大人しかった。こちらが話しかけると、終始落ち着かない様子でフーディの紐をいじりながら答える。はにかむその姿はまるで幼い少年のようであった。

 ひょっとしたら――もっとフランクな人物が来ると想像していたのに、面白みのないやつが来た、とがっかりさせてしまったのかもしれない。「明るく元気なスタッフがあなたの生活をサポートします!」このキャッチコピーがでかでかと掲載されているサフェードのホームページを見れば、期待してしまう気持ちもわかる。

 利用者に対し、堅苦しい物言いになってしまうのは悪い癖だ。明るさが重要だとわかっていても、真摯に対応しようとすると生真面目さが全面に出すぎて、いつも笑顔のタイミングを逃してしまう。

 この仕事を始めてからというもの、チカルは年がら年中このことを反省している。別れ際、彼は緊張したような、ぎこちない笑みで見送ってくれたが――担当スタッフのチェンジ要請が入る日はそう遠くない気がした。

 そんな予感に心が沈んだが、いつまでも落ち込んではいられない。

 初回は掃除機などの掃除道具や補充が必要な物の確認、在庫の場所の把握に時間を取られ全体的に軽く清掃しただけであったが、今日からはいよいよ本格的に始まる。相手がチェンジを考えていてもいなくても、目の前の仕事に全力で取り組むのみだ。チカルは仕事モードに入るために冷たい水で念入りに顔を洗った。

 身支度を済ませると、仕事道具が入っているトートバッグを肩にかけいつもよりも余裕を持って家を出る。

 年末を前にどことなく忙しない街を足早に歩き、用意した定期で改札を抜けた。ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗ると、独特の生ぬるい空気が冷えた顔を撫でる。席には座らずドアの傍に立って、過ぎ去っていく冬の街を眺めた。

 ホズミからもらったスケジュールによるとタビトは午前中から仕事で、今日は夜まで留守らしい。利用者から預かった鍵はサフェード社内の専用ボックスに厳重に保管してあるため、まずは職場に寄った。取り出した鍵をトートバッグの内ポケットに入れ、紛失しないようぴっちりとファスナーを閉める。

 埜石やいし宅には月・水・金の週3日通うことになっている。どうやら深夜に帰宅することもままあるらしく、午前中は寝ていることが多いとのことから14時から18時の4時間、交通費や鍵預かり料など諸々込みで日給1万5千円とし契約を交わした。

 このスケジュールであれば午前中に他の利用者との契約を結ぶこともできるが、彼女はアルバイトを掛け持ちしているため訪問宅を増やすつもりはない。

 チカルの持つもうひとつの顔、それは合気道の指導員である。

 彼女は3歳のころ「合気道銀湾会ぎんわんかい」の門下生となり、24歳で故郷を離れるまで熱心に修行に明け暮れた。

 上京してからは目黒区祐天寺にある銀湾会の指定道場「銀湾会かんなぎ道場」に生徒として通っていたが、当時勤めていた映画配給会社を辞めたことを機に指導員のアルバイトを始め、今では10人ほどの子ども達の指導にあたっている。

 ここの代表者であるナルカミは同郷の兄弟子であるため気心が知れており、家事代行のアルバイトを掛け持ちすることにも理解を示してくれている。その根底には、妹分であるチカルの生活が第一だという思いと、道場の経営が厳しく彼女を正社員として迎える余裕がないことへの申し訳なさとがあった。

 しかしチカルはこの現状に満足している。彼女はどちらの仕事にも誇りを持っていたし、やりがいを感じていた。

 鍵を受け取ってすぐサフェードをあとにしたチカルは再び電車に揺られ、埜石やいし宅の最寄り駅の改札を通る。人の流れに流されたり逆らったりしつつようやく東口を出ると、まっすぐにドラッグストアへ向かった。

 事前に頼まれていた買い物――ハンドソープやティッシュ、トイレットペーパー、洗剤、歯磨き粉など――を購入する。両手いっぱいに荷物をぶら下げてマンションのエントランスをくぐった。コンシェルジュから宅配便を受け取り小脇に抱えると、エレベーターに乗り込む。

 地上15階。やたらと長い廊下を歩き、ようやく部屋まで辿り着いた。上がり框に荷物を下ろすと詰めていた息を吐いて、重さに悲鳴をあげる肩をぐるりと回す。

 誰もいない家にあがるというのはもちろん初めてではないが、いつまで経っても慣れないものだ。失礼します……と小さくつぶやくと、彼女は置かせておいてもらっていた自分のスリッパをラックから取り、足を入れた。

 いつもしているように念入りに手を洗い、アイロンがけしたばかりのエプロンを身に着ける。マスクを隙間なく装着したら作業開始だ。

 今日の仕事内容は――買い出しと、コレクションルームを除いたすべての部屋の掃除と洗濯である。

 主な仕事はこの3つだが、たまにファンからのプレゼントやファンレターの整理を手伝ってほしいと言われている。頻度はわからない。料理はしなくてもいいとのことで正直安堵した。プライベートで何度も挑戦しているが、長年の同棲相手であるシュンヤに褒められたためしがないのだ。

 チカルはまず寝室に入ると、寝乱れたままのベッドからシーツと枕カバーをはがし、洗濯機に入れる。

 洗っているあいだに高い場所の埃をはらい、フローリングワイパーと掃除機で床の塵と埃を徹底的に除去する。そうしながらソファに掛かっているタオルや部屋着などを拾い集めていく――無駄のない動きだ。

 集めたものを洗濯をする前にそれぞれの汚れの度合いを確認し、食べこぼしなどのシミがある場合や汚れやすい靴下や下着などは手作業で予洗いをする。それから白物と色柄物、デリケートな素材のものなどに仕訳ける。

 洗い終わった寝具カバーはすぐに乾燥機に入れ、次は先ほど仕訳けた洗濯物の番だ。洗濯機と乾燥機が忙しない音を立てるなか、トイレやバスルームなど水回りの清掃を済ませる。

 洗濯物がたいぶ溜まっていたため、今日だけで洗濯機を5回まわした。大量のタオルは乾燥機に入れ、衣服はドライルームに干して除湿器のスイッチを入れる。寝具カバーをクローゼットのなかの棚にしまい、ふかふかに乾いた大量のタオルと服をそれぞれきれいに畳んだ。

 今日帰宅したらすぐに使えるように、バスタオルとスウェット上下、下着の一式を洗面脱衣室の籠に入れ、残りはクローゼットの収納ボックスにしまう。

 17時50分に終了。あと10分で延長料金が発生するところである。物の場所をまだ覚えきれておらず、やはり時間がかかってしまった。もちろん延長料金分給料が増えるのはありがたいが、仕事が遅いと思われたくはなかった。

 チカルは額に薄く浮いた汗をハンカチで押さえ、作業報告書の用紙を挟んであるバインダーを取り出す。そして立ったまま記入し始めた。仕事中の彼女はどんなときも決して座らない。たとえ留守で誰も見ていなくても、利用者の家でくつろぐような行為はしないと決めている。

 作業開始時間と終了時間、作業内容、特記事項などを慣れた様子でさらさらと書いていたが、最後の最後でぴたりと筆が止まった。

 作業記録の一番下の欄「ご利用者様へのメッセージ」。やけにファンシーな枠で飾られた部分……ここを書くことが、チカルは大の苦手だ。

 家事代行サービス業でもっとも重要なのは、利用者とサービススタッフの信頼関係であるといわれている。チカルが所属しているサフェードも例外ではなく、「信頼・快活・誠実」を社是とし、社訓にも「常に広く心を開き、お客様に愛される人柄をめざそう」と記されている。

 自分のプライベートを明かすのだから、スタッフがどんな人間なのかを知りたいと思うのは当然だ。

 留守中でもしっかり仕事をするかどうか、盗み癖はないか、イレギュラーな仕事でも気軽に頼みやすいかどうか。悪癖はなく信頼に値すると会社が太鼓判を押す人材であっても、トラブルになることはままある。そして大多数の利用者は、留守宅を他人に任せることのリスクを知っている。

 社訓や家事代行サービスの心得などが書いてある冊子を登録時にもらったが、そこに書かれていたのがこれだ。


ご利用者さまは私たちに対し、期待と警戒心を同時にいだいていらっしゃいます。安心して任せていただくため、笑顔と元気をモットーに、積極的にコミュニケーションを取っていきましょう。なかなか顔を合わせる機会のないご利用者さまの担当となったときこそ、『作業報告書』のメッセージ欄を活用しましょう。記入する際は明るくユーモアに溢れたメッセージを心がけましょう。


 ――何度も読み返したため暗記してしまった文面がぐるぐると頭を巡る。元来生真面目な性格であるため、毎回酷く悩んでしまう。

 さて何を書こうか。天気の話?これまでお目にかかったことのない高級なガス式乾燥機があることに驚いた話?ここに来る途中、散歩中の犬に飛びつかれそうになった話?

 どれも違う気がする。チカルは文字通り頭を抱えた。

 自己紹介的なものをつらつらと書くのも負担になりそうで気が引ける。返事を書かなければと思わせるような内容ではなくて、もっとさらりとしたものが良いのだ。

 ボールペンを手に長い間悩んでいたが、ようやく一文字二文字と書き始めた。しかしまたペン先が止まってしまう。

 静止した状態が続いた。彼女は溜息をつき、よどみないペン捌きで続きを書くと、作業報告書用のリングファイルに綴じ、白いダイニングテーブルの上に置いた。

 ――結局いつもと同じことしか書けなかった……彼女は肩を落とし、マスクを外してエプロンを脱ぐ。

 作業の評判はピカイチなのに契約がいまいち長続きしないのは、利用者との心の距離を取ることが下手なせいだという上司の言葉が脳裏をよぎった。

 作業面でのクレームがないのは大変いいことだが、継続して雇ってもらいたいならもうすこし心を開いてみたらどうだ?――そうアドバイスをもらったが、未だにその課題はクリアできていない。

 どうやら多くの利用者は親しみやすさを求めているらしい。同僚のタナベさんなどは太陽のように明るい性格でユーモアのセンスもあり、顧客からの評判がかなりいいと聞いた。5年以上継続して契約している家もあるそうで、その家の子どもたちにふたり目のお母さんと呼ばれ親しまれているという。

 チカルも6歳と12歳の子どものいる家庭に派遣されたことがあるが、懐いてくれないどころか終始距離を取られていた。契約していた時間帯の関係で、顔を合わせる機会が多かったにも関わらずだ。

 結局契約は半年ほどで打ち切られた。「学校の厳しい先生みたいで怖い」と上の子が話したことから、何かきつく注意されたのではと親が警戒したらしい。結果、それが契約終了の決め手となった。もちろんそんな事実はない。

 チカルは合気道の指導員のアルバイトもしているが、そこでは子どもたちの人気者だ。彼女が能面のような顔をしていても、警戒心もなく近寄り親しく接してくれる。

 道場は厳しいところと覚悟して来ている子ども達と、そうではない個人宅の子どもとのあいだに深い溝があるのはわかっていたが、警戒されたり拒絶されるのはやはりショックだった。

 向いていないと遠回しに言われることもある。自分でもそう思うときがあった。それでも、誰かの生活を陰で支える、この仕事が好きなのだ。

 畳んだエプロンをバッグにしまい、彼女はゆっくりと室内に振り返るとリビングの灯りを消した。

 去り際、キッチンの隅に置いておいたゴミ袋を掴む。危うく捨てるのを忘れるところだった……彼女は胸を撫で下ろし、玄関からの光をたよりに袋の口を結ぶ。

 そのとき、人気コーヒーチェーン店のペーパーカップが捨てられているのが袋越しに透けて見えた。短いメッセージと、かわいいスマイルマークが描かれている。

 以前担当した利用者が作家で、この店のコーヒーを買ってきて欲しいといつも頼まれていたことを懐かしく思い出す。毎日通い詰めていたからなのか店員に顔を覚えられ言葉を交わすようになり、プライベートで立ち寄って注文したときには、スリーブやペーパーカップにメッセージとイラストを描いてくれた。その気持ちがとても嬉しかったものだ。

 彼女はしばらくそれを見つめていたが、やがて思い立ったようにバッグを下ろすと、作業報告書が挟まったファイルを手にする。そして何やら書き足した。

 ゴミ袋を手に持ち、暗い部屋を後にする。

 報告書の内容をぼんやりと反芻しながらエレベーターに乗った。滑るように降下する箱のなか、光る液晶インジケーターを見つめながら無意識に息を詰める。

 事務的過ぎる内容だからと思い付きで書き足してみたものの、やっぱりやめた方がよかったかもしれない……彼女は深い溜息をついた。

 らしくないことをするものではなかった。後悔が押し寄せ苦しくなりながら地下のゴミ置き場に袋を捨てると、真冬の空の下に出る。

 再びの溜息と共に眼鏡を押し上げ、天を仰いだ。

 薄い月がビルの隙間にぷかりと浮かんでいた。しばらく立ち止まりそれを見上げていたが、やがてゆっくりと歩を進め彼女は家路に着く。

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