第6話

 チカルと初めて出会った日の夜は、よく眠れなかった。何度も夢とうつつの狭間を行き来していたが、ブラインドの向こうが光っているのを見ると、目覚ましのアラームが鳴るよりも先に布団から抜け出す。

 美しく磨かれた鏡に改めて感動しながら顔を洗っていると、ちょうど予定変更のメッセージがホズミから入ってきた。返事ついでに少し早く迎えに来てほしいと伝える。

 凍てつく早朝の風にさらされてもなお、頭の中はもやがかかっているようにすっきりしない。迎えの車に乗った彼は、眠気覚ましのためにアイスコーヒーを買おうといつものカフェに寄ってもらった。

「いらっしゃいませ!」

 店員たちの元気な声が響く。早朝なので人けもまばらだ。レジ前に立つと女性店員がかわいらしく微笑んで出迎えてくれる。

「おはようございます!いつものでよろしいですか?」

 爽やかな声にタビトも元気が出て、いつもの調子が戻ってきたような気持ちになる。マスクを着用し髪もぼさぼさなのに気付いてくれるのも、純粋に嬉しかった。

 まだ大学一年生だという彼女は、奨学金返済のために暇さえあればシフトを入れているといい、早朝の時間帯に来ると大抵会うことができる。

「お互い朝はやくから仕事で辛いですね」

 タビトが溜息交じりに言うと、彼女はレジ打ちしながら頷き、

「ですねえ。朝方の冷え込みも厳しいですし」

「寒いってだけで疲れるもんね……まあ、暑くても同じだけど」

「春と秋は季節の変わり目で疲れるし……けっきょく一年中ぐったりしてますよね、私たち」

 鈴を転がすように笑う彼女の耳が桃色に染まっている。

「早朝シフト5連勤で今日最終日なんですけど、今朝なんかもう……疲れすぎて目は開かないし寒いしで布団からなかなか出られなくて、遅刻ギリギリ」

「仕事しながら勉強もやってるんだもん……大変だよね。毎日がんばってて本当にすごいよ」

「しんどいときもありますけど、タビトさんからパワーもらってます。いつもありがとうございます」

 アイスコーヒーを受け取り、彼はマスク越しでも伝わるように満面の笑みを作る。

「ありがとう。くれぐれも無理しすぎないでね。また来ます」 

 かわいいウサギのイラストと短いメッセージが書かれたカップを手に、彼は軽やかな足取りで店を出た。

 現場入りしたのは午前8時。スタッフに挨拶をしながらスタジオに入ると、ヤヒロとセナがにやにやしながらこちらを見ている。

 タビトはあからさまに嫌そうな顔をして、彼らを避けてすこし離れた場所に座った。しかしヤヒロたちがそのくらいで大人しく引き下がるわけがない。

 背後から腕を回してきたヤヒロが耳元でささやく。

「来たんだって?」

「……」

「ババアだったろ。それとも男?」

「うるさいなあ。いいじゃん、なんでも……」

 肩に掛かる腕を乱暴に振り払ったが、ヤヒロはまだニヤつきながら彼の後ろをうろつき、顔を覗き込む。

「なんか様子がおかしいなあ?タビト君……」

「かわいいの?もしかして若い子がきたの?」

 ずるい!と一人合点して怒っているセナを手で諫める。

「落ち着けよ……。38歳だって」

「なんだあ、そんなに年上なの?」

「な、言ったろ。ホズミ兄さんはそういう男だよ」

 ヤヒロはセナの背中を叩く。衝撃に顔を歪めつつ、セナはタビトに目を向けた。

「どんな人なの?」

「うーん……」

「なんだよ、歯切れが悪いな」

 美しいアーモンドアイを細めて、ヤヒロは喉の奥で笑う。

「ババアだった!ってショック受けてんの?いつも調子よく『年齢は関係ない!女性はみんなかわいい!』なんて言ってんのによ」

「ババアとかさ……そういう言い方やめろって」

 タビトはマスクを外しながらヤヒロを睨む。

 そんな彼らの様子をおもしろそうに眺めていたセナは、小首を傾げて問うた。

「お母さんみたいなタイプ?あんまり口煩くちうるさいのもやだよねえ」

「いや……そういうタイプじゃなさそう」

 親や教師、権力者から感じる威圧感はよく知っている。それを恐れ嫌悪していたときもあった。いま感じているのはある種の恐怖かもしれないが、そこに嫌悪感はない。言うなれば気高い存在に対する畏怖いふだ。

 彼女を前にした瞬間、本能的なもの――自分の意志とは裏腹に足がすくんでしまうような強烈な感情が胸の奥から込み上げてきた。それは暴風のように胸中をかき乱し、彼を迷子になった幼い子どものようにしてしまう。

 ペーパーカップの水滴を指でいじりながら、タビトは頬杖をついた。

「……なんだろう。不思議な感じがする人だよ。今まで会ったことないタイプ」

 神妙な面持ちでまつげを伏せる。そしてぽつりと続けた。

「他人を前にしてまともにしゃべれなくなるなんて、初めてだ」

「へえ。コミュニケーションおばけのくせに珍しいこと言うじゃん?あのユリアさんとも仲良くなれるくらいなのに」

 セナは目を丸くする。

 彼とタビトは出会ってすぐに意気投合し、仕事でもプライベートでも行動を共にすることが多い。どのメンバーよりも彼のことをよく知っているセナからしてみれば、どんな状況でも物怖じしないタビトがそんな発言をするとは驚きだった。

「みんなそう言うけどさ……ユリアってそんなにとっつきにくいかな?」

「気軽には話しかけられないよ。超絶美女だしクールだし――仲良くなりたいけど、いろいろ完璧すぎてなんか尻込みしちゃうんだよね。仲間のダンサーだってなかなか距離詰められないって言ってるじゃん。ユリアさんと普通に話せるのなんてテオ先生とタビトくらいだよ」

「そうなの?優しいし、しゃべりやすいけどな……」

「そんなこと言えちゃうくらいなのに、なんで38歳のおばさん相手にタジタジになってんの」

 横で聞いていたヤヒロはふんと鼻を鳴らし、

「その女にサイン会でのタビトを見せてやりたいよな。ファンとしゃべる時間が長すぎてホズミ兄さんに怒られるまでセットで」

「だよね。同一人物?!って驚くよきっと」セナは、けらけらと愉快そうに笑う。「タビトってファンとか女の子の前だと、みっともないところ絶ッ対見せないもんね。なにがあっても動揺しないっていうか。ほら、ヘンな男が乱入しようとしてたときだって全然だったでしょ?」

「あー、あれか。一日警察署長やったときの」

「警察署前の広場で僕たちが一言ずつ挨拶してたら男が叫びながら芝生を突っ切って走ってきて……」

「そうそう。その後ろから警察官が追いかけてきててさ。こっちに来る前に取り押さえられて連れていかれてたけどな」

「関係者みんな、状況が呑み込めなくて動揺してたもんね。そんななかでタビトってば、何事もなかったみたいにファンと観客の前で挨拶しててさ。ただのバカか肝がわってる男かのどっちかだと思ったなあの時」

「もういいじゃん、そんな話……」

 いよいよ居心地が悪くなったのか、それまで黙っていたタビトが話を遮る。

 この場から逃げようと椅子から腰を浮かした彼を強引に座らせて、ヤヒロはその手からカップを奪った。中身がブラックコーヒーだとわかると苦い顔をし、投げるように置いて問う。

「で、実際どうなの」

「どうって……」

「とぼけんなよ。おまえがそこまで意識するなんておかしいじゃん。本当は若いやつが来たんだろ。かわいい子なら紹介しろよ、おまえにはアコがいるんだし」

「――別にかわいくない。野暮ったいし……」

 毒を含んだように口の中が苦くなる。胸の奥に重いものが溜まって、タビトは不快感に表情を曇らせた。

「とにかく放っといてよ。そうやって誰彼かまわず手を出してるとホズミさんに怒られるからな」

「俺にそんな言い方するなんていい度胸じゃねえか。家事代行の女にデレデレしてるってアコに言いつけるぞ」

「アコとはそういう関係じゃないってば」

「うそつけ。しょっちゅういちゃついてるくせに」

 そのときスタッフの挨拶が空間に響いた。声の方に目をやれば、アキラがスタジオに入ってくるのが見える。ヤヒロはその姿を視界に捉えるなり眉尻を下げて溜息をつき、「女王様のお出ましだ」言いながらタビトを解放した。

 アキラの方へと向かう背中をほっとしながら見送っていると、セナが腕をつんと突いてくる。

「今度写真見せてね」

「撮るわけないだろ」

「あーあ、いいな。うちの家政婦さんと交換してほし~」

「だから、」

 言いかけたが、スタジオ内に収録開始のアナウンスが爆音で流れたため、続くはずだった言葉は喉の奥に呑み込まれてしまった。



 スマホがひっきりなしに鳴っている。

 コップになみなみと注いだ水を一気に飲み干して息をつくと、寝乱れた黒髪を手櫛てぐしで雑に結わえた。そうしているあいだにも、ダイニングテーブルに放置されたままのそれがまた軽快な通知音を響かせる。

 チカルは頬にこぼれてくる髪を耳にかけつつ新しい水を汲むと、口をつけながらカウンターキッチンを回り込み、ダイニングチェアに座った。

 テーブルの上には、ガムの包み紙やコンビニのレシート、小銭が散らかっている。そしてその横に、スマホが置き去りにされていた。

 何通ものメッセージが届いているらしく、さっきからずっと鳴りやまない。煌々こうこうと光る画面には、きれいにネイルを施した手の写真のアイコンが浮かんでいる。銀縁眼鏡の奥の目をうっすらと細め、いけないと思いつつもアイコンの横の文章を視線でなぞった。

 ――「起きたら連絡ちょうだい」その文章のあとにハートが3つ。目をそらし、口のなかに水をいっぱいに含んで、ごくりと一気に飲み下す。

 午前9時。土曜の朝はいつも窓の外がかすんで見える。彼女は眼鏡を取ると目元を手で覆い隠し、冷たい指でゆっくりとまぶたを押さえた。

「おはよう」

 リビングのドアが開く気配と共に、くぐもった声が聞こえる。チカルは熱を帯びたまぶたから指先を放し、ほほえみと共にそちらに振り向いた。

「おはよう。もう起きるの?」

「スマホなくて……どこにあるか知らない?」

 シュンヤは腹を掻きつつ言いながら、むくんだ顔で辺りを見回す。

 彼が見つけるより先に、チカルはそれを差し出した。黙って受け取ると、大量のメッセージに目をやったまま手探りで椅子を引き、緩慢かんまんな動作で腰を下ろす。そして、指を液晶画面に滑らせながら言った。

「昨日はごめんな」

「ん?」

「早く帰ってくるって言ってたのに、遅くなって」

「気にしてないわ。頭痛くない?」

「痛すぎて割れそう……」彼は画面をタップする指を止めずに続ける。「取引先の社長がすっげー酒強い人でさ……つられて久しぶりに飲みすぎた。帰ってきた記憶ないもん」

 チカルは手に持ったままだった眼鏡を掛けると立ち上がって、棚から救急箱を取り出す。洗ったばかりのグラスに水を入れ、痛み止めと一緒に彼の前に置いた。

「そういえば、新しい家に派遣されたんだろ。どんな奴だった?」

「どんなって……」

「夫婦?一人暮らし?」

「ご利用者様のことをあまりべらべら喋っちゃいけないから」

「男?女?それだけ教えて」

「……男性よ。それ以上は教えられない」

「へえ……」

 しつこく聞いておきながら、どこかぼんやりとした返事をしてくる。

「一人暮らしの男ってことか」

 言われて、はっと息を呑んだ。

 “それだけ”という言葉につい気を取られてしまったが、性別の質問に答えるべきではなかった。チカルは自分の愚かさに歯噛みする。

 しばしの沈黙のあと彼はようやく目だけを画面から離す。片手で器用にブリスターパックから錠剤を押し出し、口に放り込んで水を一気に飲んだ。

「あれ?昨日ここに座ったんだっけ」

 グラスに唇をつけたまま、見覚えがあるらしいガムの包みをつまんで言い、次にコンビニのレシートを手に取る。印字されている品目を見るなり、ぐしゃりと手のひらで潰した。

 チカルはそんなシュンヤを横目で見遣る。視線が合うと、彼は色のない顔で薄く笑った。こちらの反応をうかがうような様子を見て取ってもチカルは表情ひとつ変えず唇を結び、彼の次の言葉をただ待っている。

 しばらくの沈黙ののち彼は再び口を開いたが、そのときには彼はもう、チカルから視線を外している。

「見た?」

「何を?」

「……いや、いい。もうちょっと寝るわ」

 レシートを握り込んだ手を解かずに立ち上がると、彼はスマホをスウェットパンツに突っ込んでリビングを出ていく。スリッパを引きずる音が遠のき、ドアが閉まる音が続いた。

 静まり返った部屋にぽつりと残されたチカルは、テーブルに乗った自分の手を見る。

 荒れた甲、皺が目立ち始めた指、短く切り揃えられた爪――彼女は細く息を吐きつつ、ずり落ちた眼鏡を押し上げると、怒りも悲しみも無視して席を立った。

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