第5話

 タビトの住んでいるマンションは24時間ゴミ捨て可能である。

 日常的に出る使用済みのティッシュやマスク、放置しておくと臭いが出る果物の皮や卵の殻などの生ゴミはこまめに捨てている。しかし、通販のダンボールやプレゼントの入っていた箱といった嵩張かさばるものは15階から地下にあるゴミ置き場まで持って行くのが億劫おっくうで、捨てるタイミングを失い限界まで溜め込んでしまうのが常だった。

 捨て損ねるものの割合で一番多いのは通販の梱包資材だ。商品が入っていたダンボール箱は捨てる前に解体作業や折り畳み作業が必要で、そのうえサイズも大小さまざま……まとめて捨てるにしてもこれが非常に束ねにくい。厄介なものだということは実際に直面してみて思い知らされた。

 仕事に忙殺され店頭で買い物をすることもままならず、ネットショッピングで手間と苦労を解消したはずだったのに――ワンクリックで手に入れた商品のかたわらには、解体を待つバカでかいダンボール箱が鎮座ちんざしている……

 ひとつ楽になり、ひとつ新しい仕事が増える。まったく、ままならない話である。疲労がどろどろに溜まった状態の心身に、ダンボールの大きさを揃えて縛り、地下のゴミ置き場に持っていく余力など残っていない。そもそもダンボールの処分で疲れ果てていては、仕事帰りに全力疾走し閉店間際の店へ駆け込んでいたあの頃と同じではないか。

 それに気付いた彼は考えることをやめた――それからというもの、快適な生活を手に入れた際に生じた別問題を見て見ぬふりで放置してきたのである。

 しかしホズミが来るとなると、これはいけない。ここにきてようやく重い腰を上げた彼は、仕事から帰って来るなりコンシェルジュに相談して台車を借り、真夜中に5往復して部屋のゴミをすべて搬出はんしゅつした。

 ――生活の乱れは心の乱れ。近所とのトラブルを避けるため部屋は清潔に保つこと。

 社長と交わしたこの約束を破りゴミ溜めと化した部屋に住んでいることがホズミにばれたら最後。彼から社長に報告が行き、連帯責任として宿舎に逆戻り……アキラから厳しい叱責を受けることになるだろう。

 実のところタビトは、ホズミや社長よりもアキラの怒りを最も恐れている。先日の部屋でのやりとりを思い出し、彼はぶるりと震えた。

 最後のゴミを格子扉の奥へと入れ、台車を返却し部屋に戻る。真夜中の冷たい空気に吐息を放つと、疲れがどっと押し寄せてきた。倒れ込みそうになりながら靴を脱いで、シャワーを浴びるためバスルームに入る。眠ったのは、深夜2時過ぎであった。

 それから7時間後。スヌーズ機能で繰り返し鳴るアラームに負け目を覚ますと、朝食を済ませてマンション最上階のジムで軽く汗を流した。

 まだ10時……ホズミが家事代行スタッフを伴ってやってくるのは13時過ぎである。

 ゴミ袋もダンボール箱もない、すっきりと片付いた部屋を見渡して彼は満足そうに微笑む。迎える準備はばっちりだ。

 初対面の人に会う前はいつもわくわくする。いったいどんなスタッフが来てくれるのだろう――同性であればもしかしたら友達になれるかもしれない。タビトは心躍らせながら何度も壁の時計を見上げた。彼は根っからの“人間好き”なのである。



 それから数時間後、タビトは耳に遠く聞こえる呼出音で目覚めた。映画を見ているうちにいつのまにか眠ってしまっていたようだ。

 反射的に時計を見ると、13時を回っている。

 彼は転がるようにしてソファを降り、インターホンの液晶画面を覗き込んだ。そこにはホズミともう一人――やけに姿勢のいい女がすらと立っている。顔はわからないが、高身長のホズミの隣だからなのかずいぶん小柄に見える。はやる気持ちを押さえつつ応答し、エントランスのオートロックを解除する。

 そして彼はすぐさまドアの施錠を解いて玄関を大きく開け放ち、扉を出たところでふたりを待った。楽しみすぎていてもたってもいられないといった様子だ。

 やがて内廊下の角を曲がって来たホズミがタビトの姿に気づき、あきれたような表情になる。彼はゆっくりと歩を進めながら、部屋に入るよう遠くから手でジェスチャーした。タビトは叱られた犬のような顔をしてすごすごと扉の向こうに戻る。

「久しぶりの休暇だな。満喫してるか?」

 ドアを開けて入ってきたホズミは瞳を細め、

「――さて……廊下に出てくるほど待ちわびていたみたいだから、もったいぶらずに紹介しよう」

 からかいを交えて言うと、背後に控えている人物を手のひらで示した。

「こちら、株式会社サフェードの那南城ななしろさんだ」

 その言葉と共に、背中にすっぽりと隠れていた女性の姿があらわになる。

 彼女を見た瞬間――頭を殴られたような衝撃があった。暴れ出した心臓を無意識に押さえ、タビトはその姿を凝視する。

 無造作に束ねた黒髪。切れ上がったまなじりと、きゅっと一文字に結ばれた小さな唇……銀縁の丸眼鏡をかけたいかにも冴えない女だが、静謐せいひつな光を閉じ込めた瞳がレンズの奥で美しくきらめいている。幼さを残す丸い顔は薄化粧で整えられており、一回り以上年上にはとても見えない。

「株式会社サフェードから参りました、那南城ななしろチカルと申します。よろしくお願いいたします」

 耳に心地よい低い声で表情を変えぬまま言うと、丁寧に頭を下げる。額を隠すやわらかそうな黒い前髪がふわりと揺れた。

 ずり落ちた眼鏡を押し上げた彼女を呆然と見遣っているタビトを、ホズミが肘で小突く。

「――おい」 

「あ、えっと……埜石やいしタビトです。よろしくお願いします」

 いつも快活なタビトにしては珍しくぼそぼそと言う。どうにもしゃきっとしない彼の代わりにホズミがチカルの前に進み出て、部屋へ上がるよう促す。

 我に返ったタビトが客用のスリッパを用意しようとしたのと同時、彼女は肩に下げている大きなトートバッグから真新しいスリッパを取り出した。

「持参しております。お気遣いありがとうございます」

 言われたタビトは虚を突かれたようになり、なにも言葉を返せない。

「失礼します」

 チカルは目礼し靴を脱いだ。手を止めたまま固まっている彼の視線を浴びながら、床に膝をついて靴の踵をきれいに揃える。きびきびした所作は一切の無駄がなく美しい。

 スリッパに足を入れたチカルは彼を射貫くように見上げ、無表情のまま言った。

「当社は感染症対策として、入室後すぐに手洗いをさせていただいております。洗面台をお借りしてもよろしいでしょうか」

 タビトは急いで頷き、バスルームへ続く洗面脱衣室の明かりを付けた。チカルはトートバッグを壁際に置くと、入念な手洗いを始める。

 それを後ろで見つめながら、ホズミがささやいた。

「信用性の高い人を選んでもらったから安心しろ。ちょっとお堅いが、どうせそんなに接することもないんだし……うまくやれよ」

 ぽんと肩に手を置くと、彼はリビングへ歩いていってしまう。タビトはチカルの背中とリビングの扉とを交互に見て、小さな呻き声をあげた。

 3人で作業手順や用具の確認をしたあと、タビトはダイニングテーブルの灯りの下でサービス申込書にサインをした。チカルはそれを受け取るとファイルに挟み、静かに言う。

「では早速、始めさせていただきます。本日は18時まで。室内の清掃と洗濯でよろしいですか」

「――よろしくお願いします」

 タビトは消え入りそうな声で言い、パーカーの紐をいじりながら頭をさげた。その様子をまたもやあきれ顔で見遣って、ホズミは肩を竦める。

 “らしく”ないぞ――そう言いかけて言葉を飲み、タビトから離れた。そして彼は、バッグから糊のきいたエプロンを取り出し身に着けているチカルの背中に声を掛ける。

「私はこれで失礼します」声に振り向いたチカルに鍵を差し出し、「この部屋のスペアキーです。昼夜逆転している日も多いので、インターホンを鳴らさずにこちらで入ってください。仕事のスケジュールは後日連絡します」

「かしこまりました」

 鍵を受け取ったチカルは、すぐに仕事用ウエストポーチの内側についているポケットに鍵をしまい、しっかりとファスナーを閉める。

 セナについた一人目の家事代行スタッフは鍵の扱いが雑だったのですぐチェンジしてもらったが――ホズミは安心したように表情を緩め、再びタビトの傍に歩み寄る。

「家事代行を頼むなんて言うからどんなに散らかっているかと思えば……きれいにしてるじゃないか」

 タビトはなにか言いたそうに口をもごもごするばかりだ。ホズミはその思いを察したようであったがあえて訊ねることはせず彼の脇を通り過ぎる。

「ゆっくり休めよ」

「ちょっ、待ってホズミさん」

 彼は慌てて背中を追い、玄関でスリッパを脱いでいるホズミのスーツの肘を掴んで引き留める。そして肩越しに後ろを振り返りチカルの姿が見えないことを確認すると、声をひそめた。

「男性のスタッフさんいなかったの?」

「ああ……残念ながら。そもそも男の登録人数自体が少ないからな」

 その回答に溜息をついたタビトは視線をちらと背後に投げかけ、ますます声をひそめて問う。

「……あの人、本当に30代後半?」

「38だよ。もうすぐ39歳になるらしい」

「嘘だあ!だって、」

「俺の話を信じなくても構わないが、女性に年齢は訊かないこと。いいな?」

 言い含められると、タビトは何も言えず黙り込む。そんな彼の黒髪をいささか乱暴に掻き混ぜ、ホズミは部屋を出て行った。

「あの……」

 背中からの声に驚いて振り向くと、社名が小さく刺繍された濃紺のエプロンと不織布の白マスクを着用したチカルがリビングの入口に立っている。タビトが息を吞んでいる間に、彼女は次の言葉を口にした。

「食器用洗剤とキッチンペーパーがなくなりそうなのですが、予備はありますか?」

「いや……ないかな、たぶん……」

「では、清掃を終えたら買ってまいります。郵便物や荷物、クリーニングの受け取りなどはございませんか?」

「えっと……宅配便とかクリーニングに関してはコンシェルジュから連絡が入るので、そのときにお願いします」

 ウエストポーチからメモ帳を取り出し書き留める彼女の手元を無意識に見つめる。水仕事をするせいか少し荒れた手の甲と、ふっくらとしてやわらかそうな丸い指先。短く切りそろえられた爪は小さく、桜貝のようだ。

「スーパーと薬局で買ってくるものは、なにか他にございませんか?」

 静かな問いかけにはっとして顔を上げると、眼差しが交差する。目の前で光が弾けたような衝撃があり、彼はくらくらする頭を押さえた。

「……埜石やいし様?」

「ありません。大丈夫です……」

「ご用命の際はお申し付けくださいませ」

 チカルはメモ帳をしまい、一礼して作業に戻っていく。

 自分の家だというのにどこに腰を落ち着けたらよいのかわからず、タビトはとりあえずトイレに入った。

 腰が抜けたようにへなへなとその場に座り込み、深く項垂れ溜息をつく。

「もー……。『明るく元気なスタッフ』じゃないじゃん……」

 ホームページのうたい文句はだいたい誇張している。それは周知の事実だが、こうして実際に自分の身に起こるとやはり気分がいいものではない。スタッフの変更も可能だと言っていた担当プランナーの顔を思い浮かべ、タビトは再び大きく息をついた。

 悪い人ではなさそうだが――彼女の瞳に見つめられると、どうにも調子が狂う。

 彼は熱くなった頬を手の甲で乱暴にこすった。ドアの向こうから、スリッパの足音や棚を開け閉めする音が聞こえてくる。

 このままトイレに籠城ろうじょうしていても仕方がない……彼女の気配を感じながら力なく立ち上がり扉を開けると、彼は「清掃不要」と伝えてあるコレクションルームに移動しそこに閉じこもった。

 やがて壁の時計が18時を回り、すべての作業を終えたチカルは玄関先でエプロンを外し帰り支度を始める。

 そんななかタビトは――先ほどまでの不満顔はどこへやら、驚きと興奮に目を輝かせていた。リビングや寝室を一周し玄関に戻ってくると、続いて洗面脱衣室を覗き込み、感嘆の声をあげる。

「すご……」

 やっと絞り出した言葉と共に彼女の方に振り向くと、

「あ……、ありがとうございます!こんなにきれいにしてもらって……大変でしたよね……その……滅多に掃除してなくて、……キッチンとかトイレとか……」

「お役に立てて嬉しいです。それでは、失礼します」

 わずかに強張った笑みでその姿を見送ったタビトは、肩を落とす。誰もいなくなった玄関にしばらくたたずんでいたが、ゆっくりと洗面脱衣室に入り電気を灯した。

 改めて見てもすごい。さすが家事代行スタッフというべきか、彼女の仕事は完璧だった。

 その晩彼は、つやを取り戻したバスタブに浸かり、水垢のない鏡を覗き込みながら歯を磨いた。

 ホテルのように整えられたベッドに潜り込むと、彼は幸福感に満たされながら目を閉じた。磨き上げられた水回り、塵ひとつないフローリング……清潔な空間とはなんとすばらしい。この美しさはクセになる。

 彼女に任せておけば安心だ……そう思った瞬間、ふいに別れ際のことがフラッシュバックする。

 その仕事ぶりに感動したことを伝えようとしたもののうまく言葉にならず、わたわたしている自分がまぶたの裏によみがえり――赤面した彼は思わず飛び起きた。ひとしきり悶絶すると、再び布団をかぶって熱い顔を枕に埋める。

 やはり彼女は、今まで出会ってきた人間と何かが違う。対人関係において常にイニシアティブを取ってきた自分が終始ペースを乱されていたことを思うと、すこしショックだった。

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