#3

 コツ……ッ……


 擦り切れる運命を飲み込んだ矢先、人形部屋の窓から小さく音を立てて揺れる。まるで雨粒が窓を打つ時のように耳を欹てないと聞き取れないようなか弱い音は、次第に大きくなってゆく。


『あれは……?』


 セイラが額に手を当てて窓を覗くと、そこには烏程の大きさの人影が見える。


『……オル……カ?』


 あまりの驚きに声が上擦った私は棚から落ちるのも厭わずに身を乗り出すと、雑談をしていた連中の声がピタリと止み、暫くの静謐が部屋中を支配した。


 月明かりに影を作る人物は器用に鍵をこじ開けると、ゆっくりと辺りを伺うような小声で問いかけながら室内に足を踏み入れる。


『カフカ……カフカはいるかい?』

『オルカっ!』


 繋がれた糸が大きく振れるのも構わず手を上げてオルカを呼ぶ私は、惜しむ事なく弾んだ声で愛おしい彼の姿を求めた。


 素早い身のこなしで人形が並ぶ棚に飛び乗った彼に付き纏うのは静かな影のみで、私達傀儡が囚われる枷を持たないオルカが歩みを進めるたび、他のキャスト達はわらわらと道を開ける。


『長らく待たせてすまない……今、戻ったよ』


 お節介な日の光と違い、決して私を責めることのない柔らかな月光を連れてきた彼の瞳の片方だけが磨き上げられたアクアマリンのようにキラリと輝く。


『お帰りなさい』


 恐々とオルカの頬に手を伸ばした私がそっと振れると、陶器の純白の肌をくすませる土埃がはらはらと散る。それすら気にする事なく頬に添えられた私の手に手を重ねた彼は、『ただいま』と私の存在を確かめるように強く握り締めた。


『その目……パパには会えなかったの?』


 精悍な顔立ちを邪魔するような痛々しい右眼を隠すように嵌められた眼帯をなぞった私に微笑んだオルカは、『……会えたよ』と重たい返事を寄越す。


『僕が工房へ運ばれた時、パパはカフカの事で憔悴しきっていたんだ……。それに追い討ちをかけて僕が壊れたから、かなりショックだったようで……』


 慎重に言葉を選びながら紡がれる事実は、私のゾワゾワとした心のモヤを掻き立てる。オルカ自身も言葉でなぞるのが心苦しいのか、繋がれた単語の合間で唇を引き結びながら、背中に背負った袋から身の丈の半分程の鋏を取り出した。


『フィリットは僕を元通り直してくれたけれど……がらんどうになって荒れ果てた工房には、僕の瞳の代わりとなる硝子がもう無かったんだ』


 オルカが器用に扱う鋏には薔薇の刻印があり、その鋏とその印には痛いほど覚えがある。手慣れた様子でそれを開いた彼は、私の体を括る糸をプチン……ッと切り離す。


『もうすぐ演劇が終わる……さぁオルカ、僕の手を取って』

『これは……一体?』

『ここに僕達の居場所はない。こんな想いをするのもさせるのも、もうウンザリなんだ』


 差し出されたその手に付いた細かな傷が彼の経験を物語り、思わず首を縦に振ってしまうような不思議な説得力がある。


『そうね……私はオルカがいるのなら、何処へでもついて行くわ』


 オルカの手を取ってすくっと立ち上がると、繋いでいたその先を見失った糸の端が名残惜しそうに私のドレスを撫でて滑ってゆく。


『大好きだよ、カフカ』


 繋いだ手を引いて私を抱きしめた彼は、闇夜に紛れる熱が冷めやらぬ外の世界へ私を掻っ攫った。

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