6-3
秋那と和花の二人に合流した真宙と御調は、秋那に手を引かれてその場を離れた。
そして手を引かれるまま連れてこられたのは、中間家だった。
真宙は一度だけ家に誰もいないタイミングで桜良に招かれたことがある。それ以来の訪問だったが、家に上げてもらった直後の光景に真宙と、そしておそらくは御調と和花も驚いたに違いない。
まるで生活感がない。人の気配もない。
留守にしている、というわけではなさそうで、まるで霧のように家人が消えてなくなってしまった……。そんな恐怖に近い感覚だった。
「こちらです」
促されるままについていき通された部屋。その場所には憶えがあった。
そこは一度だけ訪れたことがある桜良の自室。今感じるようなことではないのかもしれないが、それでもどこか懐かしい気持ちを抱き、真宙は桜良の部屋へと入る。
「……え?」
そして、言葉を失った。
その部屋には、桜良の暮らす部屋には、なにもなかった。
桜良が勉強をしていた机も、身だしなみを整えていたであろう全身鏡も、壁に掛けられていた制服も、小説や漫画の置かれていた本棚も、眠りについていたベッドも、一緒にお茶をしたテーブルも、なにも。
本当になにもなかった。
それは家具がないという意味だけではない。絨毯もカーテンも取り払われ、まるでこの部屋では誰も暮らしていないということを告げているようだった。
「……桜良、これ」
口を開かずにはいられなかった。御調と和花、二人の顔を交互に見ると、同じように疑問を抱えたような表情をしている。そして秋那へと視線を戻すと、
「あたしはお姉ちゃんじゃありません。妹の秋那ですよ、先輩」
部屋の中央で振り返りながら、秋那は続ける。
「それで、あんなところで言い合っていたのは『そのこと』ですか?」
『そのこと』そう問われると頭の中で声がした。それはこの三か月の間に何度も何度も聞かされてきた『桜良はもういない』という言葉。そしてつい先ほどまで街中で御調と揉めていた原因だ。
秋那は真宙と御調へ交互に視線を送り、御調と目が合ったであろう瞬間になにかを悟ったような顔をし、真宙を見た。
「……そうですか。ならちょうどいいです。ここなら邪魔は入りませんから、決着をつけましょう、色々なことに」
決着。秋那から発せられた言葉に、真宙は強い恐怖を感じ、胸が締め付けられた。心なしか息もしづらい。
だが秋那はそんな真宙の状態を知ってか知らずか、真っ直ぐに真宙の瞳を見据え、言った。
「粕谷先輩。あなたは今日、なにをしていたんですか?」
嘘をつく必要はない。だが秋那の瞳はなにかから逃れることを良しとはしない、とても強い意思が込められているような気がして、真宙は無意識のうちに口を開く。
「…………桜良を、探していた」
その一言に室内の空気が僅かにピリつくのを感じる。
「真宙……っ」
「……それで? 中間桜良は見つかったんですか、先輩?」
「……うん、見つかった」
「どこに?」
「……僕の、目の前に……」
そう、桜良のことをずっと探していた。でも見つからなくて、不安で、怖くて、だからなんとしても見つけたかった。でもこうして彼女は真宙の目の前に現れた。ちゃんと彼女は目の前にいる。
だが当然、真宙の目の前にいるのは中間桜良ではなく、妹の中間秋那だ。そのことはここにいる真宙以外の誰もが正しく認識している。
「………………いい加減にしろ」
低く、腹の底に響くような声。御調から発せられたその声は、あの日、公園で聞いた声よりもさらに重く深い。
「みつ、き……」
「真宙、何度も何度も言わせんな……」
「……飯塚君」
和花の悲しそうな声に、御調は泣きそうな表情を浮かべて和花を一瞥する。
「いい加減、目を覚ませよ、真宙。お前が辛いのも、苦しいのも、心が壊れかけてしまっていることもわかってる。お前の気持ちの全てを理解してやれるなんて思ってないし、俺たちがそれを癒してやれるなんておこがましいことだってわかってる」
部屋の空気が引き締まる。そしてその空気が、真宙の頭をも締め付けた。
(……っ)
ピリピリする。
頭だけじゃない、胸も、いや、体中に、違和感が走る。
「これは俺たちが逃げた結果だ。三か月前、お前と桜良のことから俺たちは逃げた。でもそれじゃやっぱりいけなかったんだ。限界なんだ、俺も、古賀も……そして、お前も」
(なにを、言ってるんだ……)
息苦しい。御調の言葉の一つ一つが、真宙の首を、胸を絞める。
「気づくのが遅すぎた。でも、古賀とのことがあってようやくわかったんだ。これはきっと、お前と桜良の友達である俺たちがやらなきゃいけないことだったんだ」
「飯塚くん……。うん、そうかもしれない……。きっとそうだね」
御調の言葉に和花も顔を上げ、なにかを決心した顔で真宙を見た。
その二人の目が、怖い。今すぐにでも逃げ出したい、そんな気持ちに駆られる。
「粕谷くん。これから私たちはあの日と同じことをあなたに言う。それはとっても酷い現実で、あなたにとってとても辛く苦しい現実だよ。でも、私と飯塚くんが隣にいるから。ずっと私たちがあなたの隣にいて、あなたが前を向けるまで支えるから」
(うるさい……)
聞きたくない。
辛くて苦しいことなんて、聞きたくない。
(うるさい……っ)
だって心が壊れてしまいそうなほどに辛くて苦しいことは、もう経験したのだ。
三か月前に、経験したのだ。
だからこれ以上、なにも聞きたくない。なにも経験したくない。なにも、なにも……。
「聞け、真宙」
それでも。真宙がどれだけ願っても、御調と和花の決意は揺らがない。
「桜良は、もういないんだ」
何度も何度も聞いていたその言葉。その度に振り払って、聞かなかったことにして、無視をしてきたその言葉。
しかし二人の決意が、その言葉を真宙の耳に残す。胸を抉り、身体を締め付け、脳に焼き付ける。
「……っ」
「どこを探しても、桜良ちゃんはもういないんだよ」
(うるさい……うるさい……っ)
聞きたくない聞きたくない聞きたくない。
(桜良がいないなんて、そんなことあるわけない……っ)
真宙はそう否定しながら部屋の中央に目を向ける。そこには一人の少女が立っている。真宙の求める少女が、そこには――。
「あたしは秋那です。お姉ちゃんじゃありません」
「――っ!」
しかしその少女から発せられたのは無情な一言だった。
パキン、となにかが割れるような音がした。同時に、目の前の景色が揺らぐ。
「逃げんな、真宙。よく見ろ。お前の目の前にいるのは誰だ? 本当に桜良か? 顔がどれだけ似ていても、目の前のその子はお前の恋人の桜良か?」
「…………うるさい」
「桜良ちゃんは甘いものが好きだったよね。でもだからって甘いチョコレートのような香りの香水、つけてなかったよね? 桜良ちゃんはそういうのを好まない女の子だった。それは、粕谷くんだってよくわかってるでしょ?」
「……うるさい」
なにかが割れて、足元に散らばる。その散らばったなにかは、ガラスだった。そしてその割れたガラスの一枚一枚に、異なる風景が映っている。
そこに映るのは自分と、そして桜良。自分の恋人であるとても大切な、たった一人の少女の姿。そのガラスがパキパキ音を鳴らしながら砕け、細かくなって、そしてついにはなにも映さないくらいまで微塵になっていく。
まるで、三か月前から聞き続けてきたあの言葉を示すかのように。
そして追い打ちをかけるように、いや、真宙にとっては間違いなく追い打ちだろう。御調と和花が示し合わせたかのように繰り返した。
「――桜良ちゃんは」
「もういないんだ――」
「――っ」
瞬間、部屋の床に散らばったガラス片が全て音をたてて砕け散った。
砂のように細かくなったそのガラスにはもう、自分の姿も、桜良の姿も映っていない。
「……ああ、ああああ、ああああああああああああっっっ!」
耳に残っていた言葉、胸を抉っていた感情、身体を締め付けていた恐怖。それらが一気に弾け飛び、そしてとても残酷で、辛くて苦しい現実を脳に焼き付ける。
「粕谷くん……っ」
真宙の絶叫に和花が心配そうな声を上げて手を伸ばす。しかしその手を御調が掴んで制した。
「たぶん、ここで手を差し伸べたらダメなんだ。突き放してでも、真宙に教えなくちゃいけないんだ」
その言葉に和花は伸ばしていた手を引っ込めて、自身の胸の前で強く握った。
和花から手を離した御調が一歩前に出る。これを告げるのは自分の役目なんだと言わんばかりに。
「何度だって言うぞ、真宙。桜良は、もう――」
自分で発した言葉通り、御調はこのとき、この場所で、秋那の言った通り決着をつけるつもりだった。それは真宙がわかるまで何度でも何度も繰り返し、決してもう逃げないという自分への誓いだった。
そう、何度でも繰り返す。
だが一度崩れた真宙にはもう、そんなことをする必要はなかった。
「――わかってるよっ、そんなこと!」
御調の言葉を遮るようにして吐き出された言葉。一度吐き出してしまったら、濁流のように、もう止まらない。
「桜良がもういないことくらい、僕だってわかってるよっ! どこを探してももういないことくらい、わかってるよっ!」
そして今度は、真宙が御調の服の襟を両手で掴む。
「でも、だけど! そんなこと簡単に認めることなんて出来ないんだ! なんでそれを簡単に受け入れることが出来るんだ!」
とても大切な人だった。とても大好きな人だった。だから喪ったショックはなによりも大きく、その現実は耐え難いものだった。真宙の言葉通り、それは簡単に認めて受け入れることが出来るようなことではなかった。
「また声が聞けるかもしれない、また笑顔が見れるかもしれない、また手を握れるかもしれない。そう思って、そう期待して、なにがいけないんだよっ!」
「粕谷、くん……っ」
真宙から吐き出される感情に耐えられなくなり、和花は自身の口元を覆う。でも視線だけはしっかりと真宙へと向けられていた。
「……いけないことなんて、ないさ。でもそんな期待をしても、なにも変わらない。現実は変わらない」
親友の、御調の言葉はどこまでも厳しく、どこまでも真宙を突き放す。だがその声色は優しくて、でもだからこそ御調たちが真宙のためを思って真実を話していることがよくわかってしまって、それが逆に辛くなる。
「まだどこかにいて、ひょっこりと顔を出すかもしれない。そう、思ってしまうんだ。そう、願ってしまうんだ……っ」
それだけ真宙にとって桜良を喪った現実は受けられないものなのだ。
どんな僅かな可能性にでも、どんなに奇跡的なことにでも、縋ってしまうくらいに。
受け入れられるわけなんて、ないのだ……。
溜まっていた感情を吐き出すと足から力が抜けた。御調にもたれ掛かるようにして真宙は床の上に膝をつく。
その瞳からは、気づけば涙が溢れていた。
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