6-1

 新年を迎えそして三が日が過ぎると、周囲のお正月というムードもとりあえずの落ち着きをみせる。

だが当然、秋那にとって今年のお正月はあってないようなものであり、とてもではないが新年だからとそれを祝い、はしゃぐ気分でも状況でもない。それに秋那にはやらなくてはいけないことがある。もう、タイムリミットまで時間がない。

 一月六日。秋那は今日も雪の残る街へと足を踏み出す。

「……秋那」

 玄関先で靴を履き替えていると背後から今にも消え入りそうな声が聞こえて振り返る。そこには幽霊のようにやつれた顔をした父と母がポツンと立っていた。

「秋那。本当に、お父さんたちと一緒に行かないのか……?」

 なにか言いたげだがそれを口に出来ない様子の母に代わり父が問う。

「うん。まだ、やり残したことが一つだけあるから……」

 秋那は両親の顔を順番に見つつ答えた。

「秋那。でもね――」

 それまで黙っていた母が身を乗り出すようにして声を荒げた。それに続く、母親の言いたいことは秋那にもわかる。その気持ちもわかる。だが、それでも、秋那にはどうしてもやることがある。それを達成するまで両親と共に行くことは出来ない。

 だがきっと、それを言葉にしても母は秋那を連れて行こうとするだろう。それは母の心情を思えば当然のことだ。だからいくら言葉を投げかけても、きっと母は納得しない。だから秋那はただ真っ直ぐに、母と、そして父の瞳を交互に見た。

 すると、そんな秋那の気持ちが伝わったのか、秋那を連れて行こうとする母のことを父が制して言う。

「……わかった」

「あなた……っ」

「…………向こうで、待っているからな」

「……うん」

 父の理解に感謝して秋那は頷いた。

「行ってきます……」

 家を出ようとする秋那は、そう言って最後に振り替える。

 それはこれが最後だと秋那もわかっているから。自分の生まれ育った家で両親と言葉を交わす。もう二度とすることが出来ない、見ることが出来ない光景に視界が滲むが、それでも思い出の一つ一つを心に刻むため、その光景を瞳に焼き付けてから秋那は家を出た。

 振り返ったら泣いてしまいそうだった。だから秋那はもう振り返らず、二度と見ることがないであろう光景を心の奥底にしまい込んで歩く。

 そして、風を切るようにして足早に歩いたせいか、予定よりも早く目的地に到着した。その目的地の扉を開けると、来客を知らせる鈴が小さくチリンと鳴る。

 顔なじみのマスターと目が合い、秋那は空いている席に腰を下ろした。

(この喫茶店に来るのも、今日が最後かな……)

 桜良のお気に入りで、桜良に何度も連れてこられた喫茶店。大人ぶって人生で初めてコーヒーを飲んで、あまりの苦さに桜良に笑われて、それからは毎回、桜良と同じ紅茶を注文した喫茶店。

 自分の家に劣るとはいえ、ここにも思い出がたくさんある。そんな喫茶店で最後に注文するのはいつもと同じ紅茶。

 時計を見ると待ち合わせの時間までまだ少しある。一足先に紅茶を頼んで飲みながらゆっくり待っていよう。そんなことを考えていると店の扉が開き、そこから一人の少女が入ってきた。

「秋那ちゃん……」

 名前を呼んだのは和花だ。和花は秋那を見つけるとテーブルに近づいてくる。

「こんにちは……。あ、いや、えっと……」

「気を遣わなくて大丈夫ですよ、先輩。あけましておめでとうございます」

「……うん、あけましておめでとう、秋那ちゃん」

 挨拶を交わすと和花は秋那の対面に腰を下ろす。

「もう注文しちゃった?」

「いえ、これからです」

 和花も秋那ほどではないにしろ、桜良と一緒にこの喫茶店には何度も訪れている。だから普段から注文しているお気に入りのメニューがあるため、特に悩むこともなく視線でマスターを呼んだ。

「えっと、私は――」

 和花が注文し、それに秋那が続く。

 いつも頼んでいるお気に入りの紅茶とケーキ。それももう注文することがないんだと思うと、とても感慨深いものがあった。

「今日はありがとうございます、古賀先輩。急に呼び立ててすみません」

「ううん、全然大丈夫。それより、ごめんね。あまりメッセージとか返さなくて」

「いえいえ。それは仕方ありませんよ。悪いのは粕谷先輩ですから」

「でも何度もメッセージ無視しちゃったりしたし……。あはは、これじゃあどっちが先輩かわからないなぁ」

「歳なんて関係ないと思いますよ。辛いことは、誰だって辛いと思いますから」

「うん、ごめんね。ありがとう」

 和花に負い目があるせいか、中々会話が弾まない。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなのか、和花は僅かに俯いていて視線が合わないのだ。

(でもま、外で会ってくれただけ良かったかな)

 この数日で和花にもなにかしらの変化があったのだろう。今日だって正直、ずっと引きこもっていた和花が外に出てくれるかはわからなかった。

 本当なら心の傷はどんなものであれ時間をかけて癒したほうが良い。しかし秋那には文字通り時間がない。秋那も和花の傷が完全に塞がるのを待っていられない。

「……その後、粕谷先輩とはどうですか?」

 それでも踏み込むには勇気が必要で、小さく深呼吸してから訊いた。その秋那の質問に和花は僅かに肩を震わせて顔を上げる。

「…………あれから会ってはいないよ。メッセージも、返してない」

 そう言ってまた顔を伏せる。

 だがそれも無理もない。和花だってどうでもいい他人からの言葉なら、ここまで引きずったりはしなかった。真宙からの言葉だったからこそ、和花は大きなダメージを負ったのだ。それは他人からの言葉とは比較にならない。

「秋那ちゃんは? あれから粕谷くんと会った?」

「あたしは……」

 そう言いかけたところで音もなくマスターが紅茶とケーキを持ってきた。話を一時中断し、紅茶とケーキが目の前に並ぶのを待つ。

「ごゆっくり」

 注文を運び終えたマスターは一言残してカウンターへと戻っていく。

 運ばれてきた紅茶を一口含み、秋那は再度口を開く。

「あたしは、先輩に会いました。一緒に初詣に行きました」

「は、初詣……っ」

「……?」

 なにやら初詣という単語に異様な反応を和花は示す。そんなに不思議なことなのかと気になったが、今は追及しないでおくことにする。

「たぶん先輩からもメッセージが送られてきていると思いますけど、あの件についてはちゃんと反省しているようでした。直接会って謝りたいとも言っていましたよ」

「うん。……なんだか申し訳ないな」

「何度も言いますけど、あれは古賀先輩が悪いわけじゃありませんよ?」

 きっと和花もそんなことはわかっている。しかしそれでも真宙のことを考えてしまう辺り、この人はとても優しい人なんだと思う。

「……だから、許したくないなら許さなくてもいいと思います」

 本当はそれでは困る。ぜひとも和花には真宙と仲直りして関係を深めてもらいたい。でもそれは秋那がどうこう決めることではない。

「ううん。許したくないなんてことはなくて。ただ会って話す勇気が足りなくて……。でもちゃんと会って粕谷くんと話をしようって今は思ってる」

 そう言って顔を上げた和花の表情は、直前までとは明らかに違っているように見える。

「なにかあったんですか?」

「……うん。ちょっとね、勇気を貰ったから」

 そう言って和花は俯いた。

 しかしそれは直前までの、真宙に対しての後悔や贖罪の気持ちとは明らかに違うように感じる。気になってよくよく表情を見てみると、和花の頬は僅かに紅潮して落ち着きも欠けているように見える。

 そしてそんな表情や仕草を見て、秋那は直感する。

「なにかあったんですか? いや……ありましたよね、先輩?」

「……っ!」

 おそらく、和花自身も今の自分の反応は無意識だったのだろう。秋那にそのことを指摘されて驚いたように顔を上げる。その顔色は明らかに肯定であることを示していた。

「な、なにも……ない、よ……?」

「嘘です。あたしの女の勘がそう言っています」

 この和花の表情と態度は見たことがある。

 そう、あれは桜良に真宙という恋人が出来たとき。真宙から気持ちを告げられたとき。その日の桜良は、今の和花と似たような反応をしていた。

 もしも和花がそのときの桜良と同じ状態であるのなら、和花は誰かに想いを告げられたということになる。

 では、それはいったい誰なのか。

 付き合いはとても短いが、和花は誰彼構わず告白されて喜ぶような女性ではないと秋那は考えている。それならば当然、和花との付き合いが長く、例え和花に真宙への想いがあっても少なからず意識してしまう相手。

 そうなってくると該当者が一人、秋那の頭に浮かんだ。

「…………飯塚先輩、ですか」

「……っ!?」

 御調の名前を出すと和花はあからさまに動揺し、空気を飲む変な音が彼女の口から漏れ出た。どうやら当たっていたらしい。

 正直、秋那の目的を考えれば御調と和花が上手くいくことは決して好ましくない。だが御調と和花はとても良い先輩だし、二人が結ばれた先に幸せがあるのならそのほうが良いとも思う。

 だがそれよりも単純に、一人の女子としてこの手の話には興味もあった。秋那の頭から今だけ自分の目的の存在が薄くなる。

「返事、したんですか?」

 そう問うと和花は答えに逃げるようにケーキと紅茶を口にする。しかしその間も一切、目を逸らさない秋那に根負けし、

「……まだ。……突然だったからびっくりしちゃって。……保留に、してもらってる」

「保留、ですか」

 なんとも煮え切らない回答だ。だが和花らしいといえばらしいのかもしれない。

「あ、でもね。そのときは慌てて保留ってことにしちゃったけど、断るつもりではいるんだ……」

 そう口にした和花は少し落ち着きを取り戻し、僅かに悲しい笑みを浮かべた。

 その理由は、想像しなくても容易にわかる。

「……粕谷先輩ですか?」

「うん。私の気持ちは、飯塚くんも知ってるから。その上での、その……告白、だったから……」

「……いいんですか?」

 と、それを言って秋那は後悔した。どの口がそんなことを言うのか。自分にそんなことを言う権利は一切ないというのに。

「飯塚くんの気持ちは嬉しかったよ。そんな風に想ってくれているなんて全然知らなかったから。でも飯塚くんに告白されたからって、私のそれまでの気持ちが全部なくなるわけじゃないからね」

 その通りだ。

 誰かに告白されたからといってすぐに切り替えられるような気持ちは、きっと本物じゃない。その人への心からの想いじゃない。和花は真宙と桜良が付き合っているときから、いや、きっともっと前から真宙へ好意を持っていた。そんな何年越しの気持ちがそう簡単に変わるわけはない。

(人の気持ちは、そんな簡単なものじゃない。……それこそ、たった三か月で気持ちが変わったりなんてしないんだ……)

 浮かんだのは真宙の顔だった。

 桜良がいなくなって三か月。自分と同じように真宙も苦しんでいる。気持ちを切り替えることが出来ないから、今もこうして桜良の幻影を追い続けている。

 自分には目的があった。やることがあった。それ故に『死神』と真宙たちの前で名乗った。それは桜良への想いと、桜良がいなくなったことへの悲しみや苦しみを紛らわせるものだった。だからまだ、自分は真宙と同じ場所には足を踏み入れていない。だが真宙は真っ直ぐに最短距離で、辿り着いてはいけない場所に辿り着いてしまった。

「私はね、やっぱり粕谷くんのことが好きだから」

 和花の言葉に秋那は思考の海から帰ってくる。その彼女の顔は、真宙への好意と御調への申し訳なさ、そしておそらく、桜良への遠慮などの感情が混ざり合ったとても複雑な表情だった。

「粕谷くんが桜良ちゃんのことを好きなのはわかってるし、私が告白してもフラれるのもわかってる。でもそれがきっと飯塚くんへのケジメにもなるし、区切りにもなると思うから」

「区切り、ですか?」

「うん……。粕谷くんへの気持ちの一つ区切り。その先でどういう風になるのかは、まだちょっとわからないけど、でもいつまでも今のままじゃダメなんだって思うから」

 それはきっと告白だけの話ではないのだろう。そんな気がする。

「……返事、するんですね」

「……返事はするよ、もちろん。でもやっぱり怖いなって思う。今までの関係が心地よすぎたから。それが壊れるのは、楽しかった関係が壊れるかもって思うと逃げたくなる」

「きっとみんな同じですよ」

「うん。だからそこから一歩踏み出した飯塚くんって凄いなって、カッコいいなって思うんだ。だからそんな彼に、せめて私もちゃんと向き合って返事をすべきなんだ。例え今の関係が変わってしまうとしても」

(変わるための……変えるための……)

 恋をしている自分が想像できないし、これから誰かに恋をするのかどうかも想像が出来ない。そんな自分に一番身近な恋といえば、想像できることがあるとすれば、それは桜良のこと。大好きな姉と、その恋人である真宙のこと。

 もう終わってしまった、二人の恋のこと。

 いや、終わらせなければならない恋のこと。

(あたしは、どこかで迷っていたのかもしれない……ううん、寂しいと、思っていたのかもしれない)

 真宙が、桜良との恋を『終わらせてしまう』ことを。

(なにが『死神』なんだか……。だけど違うんだ。それはあたしの、あたしの勝手な我儘だ。二人のことなんて考えてない、あたしの願望。だから……っ)

 そう、自分の、秋那自身の気持ちなんて関係なかった。秋那は『やる』と決めた。それが正しいと思ったし、なによりそれが……――。

 もう時間はないのだ。このままでは全て中途半端で、誰も幸せになれず、願いを叶えることが出来ない。

 なにより、このままでいいわけがない。

 だからやるのだ。やらなくてはならないのだ。

 そして、そのためには。

(変えるんだ……。あたしが、変えるんだ……。だってもう、絶対にあのときのままではいられないんだから……っ)

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