4-1

「秋那、準備は出来た?」

 部屋の外の廊下から声をかけられる。秋那を呼ぶのは姉の声だ。

 秋桜が咲く秋の休日。秋那と桜良は二人で街へと出かける予定を組んでいた。秋那からしてみれば、それはとても久しぶりの姉妹二人だけの外出だった。

 桜良に恋人が出来てからというもの、姉妹二人で過ごしていた休日のほとんどを、桜良は恋人と過ごすようになっていた。それは正直仕方がないことだと秋那も頭ではわかっている。だが心はそれを割り切ることができないでいた。

 そして桜良はそんな秋那の気持ちを悟ったのだろう。今日という休日に秋那を誘ったのだ。

 当然、秋那は喜んだ。久しぶりの姉と過ごす休日。しかも桜良のほうから誘ってくれたのだ。嬉しくないわけがなく、前日の夜は遠足前の小学生のように中々寝付くことができなかった。

 おかげで少しだけ寝坊をし、今慌てて準備をしている最中だ。

「――ごめん、お姉ちゃん! もう行ける!」

 部屋にある全身鏡の前で前髪を直し、服装におかしなところがないかの最終チェックをして桜良に向けて叫ぶ。そしてお気に入りのバッグを持って部屋から飛び出した。

「お待たせ、お姉ちゃん!」

「もう、夜更かしばっかりしてるから……。って、その服」

「えへへ、お姉ちゃんとお揃い」

 昨日、事前に桜良からどんな服で行くのかを聞き出していた。すると以前にお揃いで買った服で行くようなことを言っていたので、それならもちろん秋那も桜良と服装を合わせることにした。

 お揃いなのは服装だけじゃない。バッグも、髪型も、秋桜の髪留めも、リップも、なにもかも、桜良とお揃いにした。そんな様子を見て、桜良は「もう」と少しだけ笑い、秋那も同じように笑って返した。

「それじゃあ行こうか」

「うんっ」

 階段を下り、ちょうどリビングから出てきた母親に「行ってきます」と告げ、二人は並んで家を出た。

「秋那、どこか行きたい場所ある?」

「どこでもいいよ」

 特別どこかに行きたいわけじゃない。ただ桜良と二人の時間が過ごせればそれで良いのだ。場所ではなく、桜良と一緒にいることが目的なのだから。

 桜良もそれをわかっているのか、「それなら適当に歩こうか」と言って歩く。

 街中を歩いていると中間姉妹はとても目立つ。

 同じ服装、同じ髪型、同じ顔をした二人が歩いているのだ。目立たないわけがない。

 だが秋那はそんな周りの視線なんて気にならない。桜良と同じ時間を共有しているのが嬉しくて、楽しくて、そんな周りの視線なんてどうでもよくなっているのだ。

 二人は桜良の言った通り目的もなく街中を歩く。

 するとふいに桜良が足を止めた。

 桜良の視線の先には一軒の古着屋があり、桜良はその店の店頭に並んでいる一着の服をジッと見ていた。

「どうしたの、お姉ちゃん。……それ、欲しいの?」

 秋那も視線を追って服を見るが、それは桜良が着るようなジャンルの服ではない。というかそもそも男物だ。ボーイッシュな女性なら似合うかもしれないが、どちらかと言わずとも女の子な桜良にこの手の服装は似合わないだろう。

「ううん、わたしが着たいわけじゃなくて、真宙くんに似合うかなって」

(真宙……それって……)

 それは桜良の口からよく出てくる男の名前。桜良の恋人である粕谷真宙という男子の名前だ。そして今、秋那が一番聞きたくない名前でもある。

 秋那からすれば真宙は、自分と桜良の時間を奪っていった外道だ。真宙さえいなければ秋那はずっと桜良とこうした時間を共有することが出来ていたはずで、一緒にいるときに真宙のことを考えたりすることもなかった。

(でもお姉ちゃん、幸せそうなんだよな……)

 粕谷真宙という名前、その存在は昔から知っていた。桜良の口からよく出てくる仲の良い友人三人のうちの一人。それがいつからか『ただの友人』が『最愛の恋人』になっていて、その日から明らかに桜良の口から真宙の名前が出ることが多くなった。

 だが真宙の話をしているときの桜良はとても幸せそうなのだ。嬉しそうに笑い、見たことがないようなニヤけた顔をする。それが惚気だとわかってはいるが、桜良が真宙との関係に強い幸福を感じているのは揺るぎない事実だった。

 秋那は真宙に会ったことがない。というより、会いたいなんて塵ほども思っていないのだが、それでも最愛の姉の恋人らしいその男には、一度会ってきっちりと品定めしないといけないと思っている。

(今に見てろ、粕谷真宙……っ)

 とりあえず真宙に会ったら一発ぶん殴ってやろうと思う。

「お姉ちゃん、行こ」

「あ、うん。ごめんね。行こうか」

 気持ちが真宙へと向いていた桜良を、なんとかこちら側へ引き戻すことに成功し、秋那は桜良の腕を引っ張るようにして再び歩き出す。

 それから桜良は真宙の名前を口にすることはなくなった。もしかしたら秋那が内心で拗ねていたのを見透かされたのかもしれない。

 年齢は一つしか違わない。なのに秋那から見たら桜良はとても大人に見える。

 いくら顔が似ていても、服装や行動を真似てみても、やっぱり桜良のようにはなれないし、その道はとても険しいように思う。

 でもだからこそ秋那は桜良に憧れを抱いたし、顔が似ていて桜良に間違われることも嬉しく思うし、桜良のことが大好きだった。

 自分はまだまだ子供だと痛感する。

 だけど、それでもいつか。桜良のような女性になれたらいいと思う。なりたいと思う。

「そうだ、秋那。少し休憩がてらお茶しない?」

「あ、うん。いいよ! じゃあいつも喫茶店で」

「そうだね、じゃあ行こ――」

 と、そこから先の言葉は不自然に途切れて聞き取ることは出来なかった。

 突風が吹いたような感覚だった。秋那の前髪を揺らし、肌を撫でつける風。そしてその風が吹いた瞬間、桜良の姿が目の前から消えていた。

「…………ぇ?」

 周囲がやけに騒がしい。その喧騒が悲鳴であることを頭が認識すると、急速に得体のしれない、それでいてとても気持ちの悪いなにかに包まれる。

 桜良の姿を探した。ついさっきまで隣を歩いて言葉を交わしていたはずの姉。そんな姉の姿がどこを探しても見当たらない。

「お姉ちゃん……?」

 声をかける。しかし桜良から返事はない。変わりに周囲の喧騒がはっきりと耳に残るようになった。

 周囲はまさに阿鼻叫喚だった。喧騒だと思っていたものは最早、狂騒であり、パニックが伝染していく。そして周囲の視線は一点に注がれており、その視線の先に向けて警察や救急を求める声がしていた。

 ドクドクと心臓の音がやけにうるさく聞こえ、息苦しく嫌な汗が全身を伝う。

 そんな中、周囲を囲む一人の女性と目が合った。知り合いでもなんでもない、まったくの他人だ。だがその女性は秋那のことを見て驚いた顔をし、そしてすぐに視線を別の場所へと移してから目を伏せた。

 その場所は、他の人たちの視線が一点に集まっている場所。その全ての視線に引っ張られるようにして、秋那の視線もその場所へと向く。

「…………あ、え……?」

 視線の先では、一台の車が壁に突っ込んでいた。前方から突っ込んだであろう車のフロントは大破しており、僅かに壁にめり込んでいる。車内には運転手の姿があるが、意識がないのがぐったりしている。

 だが正直、秋那にとってはそんなことはどうでもよかった。

 再び周囲の喧騒が消える。聞こえるのは自分の荒い息遣いと、激しい心臓の鼓動だけ。そして目に見えるのは、壊れた壁と車体に挟まるようにして血を流す、最愛の姉の姿だった。

「お、姉ちゃん……?」

 ふらふらとした足取りで桜良の下へ向かうが上手く歩くことが出来ない。それでも必死に足に力を入れて、手を伸ばせば桜良に触れられるところまで歩く。

「お姉ちゃん……? ねぇ、お姉ちゃんってば……」

 すぐ目の前で見る桜良の顔は青白く、まるで蝋人形のように見えた。ほんの数分前まで笑っていたはずなのに、一秒一秒の経過とともに桜良の身体から大事ななにかが流れ出て言っているような気がする。

「お姉ちゃんってば」

 いつもなら呼べば笑顔で答えてくる姉。しかし今はいくら呼んでも返事はおろか、目を開けてくれさえもしない。

 そしてその時初めて、秋那は『得体のしれない気持ち悪いなにか』から『恐怖』という感情を自覚してそれに囚われた。

「ねぇ、お姉ちゃんってば!」

 ようやく出た叫び声は震えている。少しでもその『恐怖』から抜け出したくて、何度も何度も必死に桜良のことを呼び続けた。

 だが桜良は答えない。いつも呼べば笑顔で振り向いてくれる。そんな当たり前すら今は叶わなくて、でも呼び続けないとこのまま二度と桜良は目を覚まさないような気がして、秋那は必至に呼び続けた。

 それから少しして誰かが通報してくれたであろう警察と救急隊が到着した。彼らに助けられた桜良は救急車に乗せられ、秋那も付き添いとして一緒に乗り込む。

 車内では隊員が必死に桜良の治療に当たってくれていた。しかしその必死さや雰囲気から嫌な想像だけが頭の中を巡る。

 不安で不安で、このままなにもしなければ桜良が消えてしまいそうで、それがとてつもなく怖くて、秋那は桜良の隣で必死に名前を呼び続けた。

 それしか、秋那に出来ることはなかった。

 そして何度目かの呼びかけで、

「………………あき、な……?」

 今にも消えてしまいそうなほどにか細い桜良の声が聞こえた。

 秋那は桜良の手を取って名前を呼び続ける。すると本当に僅かに、桜良が秋那の手を握り返した。

「あ、きな……。ごめん、ね……」

「え、な、なんで謝るの……?」

「あきな……ありが、とう……。お父、さん、と……お母さ、ん……にも……伝え……」

「お姉ちゃん? どうして今そんなこと言うの? ねぇ、やだよ、お姉ちゃん!」

 強く強く桜良の手を握る。しかし桜良がもう一度、秋那の手を握り返すことはなく、絶え絶えになりながら少しずつ言葉を紡いでいく。

「……ね、あきな……お願い……ある、の……」

「お願い……?」

「……れ、が……きっ……さい、ご……から……」

「最後? 最後ってなに? そんなこと言わないでよ!」

「……あの……ね……」

 なにかを言いかけた直後、水が逆流するような音が桜良の口から聞こえ、同時に大量の血液が噴出した。ビチャビチャと飛び散ったそれは、秋那の手や顔を赤く染める。お気に入りだったお揃いの洋服は、お互いに見るも無残な状態になっていた。

「お、お姉ちゃん! いいから、今は喋らないで! お願いだから!」

 人間が生きていてこれだけの吐血をすることは異常だ。明らかに生命活動になんらかの重大な障害が起きていることは、いくらなんでも子供だって理解できる。

 でもそんな見たくもない光景を見たからこそ、心のどこかでは悟ってしまっていたのかもしれない。

 もしかしたらもう、桜良に秋那の声は届いていないだろう。手を握り返されたあたりから、桜良とまともに会話も出来ていないし、視線すらも合うことがない。流れ出る血液と一緒に桜良の生における大事なものが流れ出ているような気がする。そしてきっと、そのことは桜良自身が一番深く理解しているはずだ。

 だからこそ、言葉を紡ぐ。伝わっていると信じて秋那へ。

 信じたくなどない。だが秋那もこの言葉が桜良からの最後の言葉になるのではないかという嫌な確証があった。

 だから耳を澄ます。一言一句を聞き逃さないように。

 大好きな姉からの、『最後のお願いを』――。

「……あ、きな……あ、のね……――――」

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